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2001年1月例会
開催月日 1月28日(土)

開催市町

香住町
テーマ 平家村御崎の百手(ももて)の儀式
講師

岡辻増雄 (香住町御崎・元区長)

場所 余部小学校御崎分校・平内神社(香住町御崎地区)
参加者 島垣、太田、衣川、木村、粂井、高石、友田、中尾、中田、能登、浜野、細見、湊崎、会員外1名
担当 湊崎、友田


■ 平家再興の願いを今も伝える
御崎の駐車場が狭いので、11時30分に香住町海の文化館に集合し、乗り合わせて御崎地区へ行った。手打ちそば「平家の里」でそばや平家かぶらの煮物などの昼食をとり、13時から余部小学校御崎分校で岡辻さんの話を聞く。14時40分に公民館へ移り、行事の準備を見る。百手の儀式は15時50分に始まった。村の中心から行列をつくって平内神社に参内し、的を射る。16時40分に終わった。分校の中村美智子先生・中村みわ先生もビデオを回しながら仲間入りした。

■ 平家の落人
壇ノ浦の戦い(1185年3月)に敗れた平家の武将のうち、門脇宰相平教盛(のりもり)、幼帝安徳天皇の衛士(えじ)伊賀平内左衛門、矢引六郎右衛門ら一行7人が、6月5日にここ御崎に漂着した。崖を登ると、庵にいた高野聖の森本淨実坊という修験者から、葛の葉にのせた小麦の蒸し物を施され餓えをしのいだ。淨実坊の勧めで土着し平家再興に備えることにした。一の谷に門脇宰相が、西方平家崎に伊賀が、東方さんじ屋敷に矢引が居を構える。屋敷跡は今も残っている。万一追っ手が来れば「招き岩」で陣貝を吹いて急を知らせ、「寄り合い畠」で軍議評定を、さらに軍事訓練を「馬場ヶ平(なる)」でした。 400年後に今の御崎地区に居を集めたが、近くの谷々に住む同志にほら貝を吹いて知らせ出陣に備えた「陣ぞろえ」の行事が、正月に大正年間まで続けられた。また大正の始めまで、同じ平家の落人の竹野町宇日・田久日地区とは、大晦日にのろしを上げあって互いの無事を確かめ合った。

■ 百手の行事
正月28日に平内神社で催す百手(ももて)の行事は、今も続けている。竹で編んだ45センチ四方の的に目(源氏の)を書いた紙を貼り、門脇・伊賀・矢引の三家の若者が武士に扮し、的を目掛けて101本の矢を射る。なぜ1月28日なのかは伝わっていないので分からない。 昭和50年過ぎに源氏の子孫だという人から手紙が来て、源氏の目はやめてほしいという。遠方の人だ。2度説得に出向いて分かってもらったと思うが、こちらで話し合って丸印の普通の的に変えた。また今は三家に限らず射手を出している。御崎の者はみんな平家の血が流れている。私は伊賀の血が濃い。

■ 御崎の村
 今は19戸70人だが終戦後は48戸あった。このうち長く続いているのは35戸ぐらいだ。御崎に通じる道路が完成したのは昭和45年で、それまでは余部まで歩いて出なければならず、舟も出した。昔は半農半漁の村だった。定置網を浜と共同で持っていた。御崎の村は切り立った崖の上(海抜170メートル)にあるが、昔から小さい港があった。 薪や炭を舟で運んだ。また終戦しばらくまでは石材の産地だった。石工が15、6人いた。御崎石といって崖石に使われた。石仏や鳥居・灯籠にも使われた。御崎の村にたくさん使われている。崖の下の港から帆船で敦賀まで運ばれ滋賀県で使われた。御影石に押されて衰退した。私も石工をした。

■ 小麦まつり
 漂着したときに浄実坊に小麦を施されたのが起源と伝えられている。今は10月1日の秋祭りの行事として日吉神社で続いている。日吉神社は平家の守護神だ。小麦(粉ではない)を蒸籠(せいろ)で蒸し、葛の葉に載せて参拝者にふるまう。

■ 平家かぶらとそば
 田の少ない御崎はかつて、3度の食事の1度はそばだった。つなぎは入れず、割り箸よりも太いそばを打って、小豆といっしょに食べた。私は甘党なので適当に 甘いそばだった。学校から帰ったら「そばを挽いとけよ」と親に言われ、石臼で挽いた。 食べるものがない平家の落人が目にしたのがたくさん生えているかぶら だ。常食にしたという。平家かぶらの名がいつのころか付いた。焼き畑をすると、種をまかなくても生えてくる重宝な食べ物だ。今でも野生で生えている。花は2 月から咲き始め、4月が盛り。
 
■ 百手の行事
準備
午後、村の人々が公民館に集まり用意を始める。弓矢と的を作る、村の中から平内神社にかけて、揚羽蝶を黒く染めた平家の赤旗を立てる、会場の神社を準備する、ふるまいの甘酒を作るなどの作業を手分けして進める。御崎の村の北側は崖が一気に落ち込み、日本海からの北風がもろに当たる。この日もみぞれがときおりたたきつける寒い日だった。公民館の空き地の焚き火で暖をとる。 矢は村の周りに生えている矢竹(鉄砲竹)を切って101本作る。1メートルほどにそろえ、先を尖らせ手前に股を刻む。弓はまだけ(はちく)を3メートルほどにそろえ、先と下を1メートルほど残したあたりを麻ひもで結んで弦にする。3本作る。
儀式
3時過ぎに射手の若者と矢持ちの少年が公民館にやってきて、儀式の装束に着替える。今年の射手は岡田良さん(18)、松上佳弘さん(18)、麻町章裕さん(17)、青みがかった裃を着た。矢持ちは麻町卓司くん(12)、中野泰幸くん(7)、中野康浩くん(5)で白い羽織を着けた。  3時45分になって村の中央の伊賀家前に集合し、村の人もいっしょに平内神社まで「控え控え 脇に寄れ」と叫びながら行列をつくる。300メートルほど歩いて神社に到着すると、鳥居をくぐってすぐにある銀杏の大木に的を立てかけてしばる。射手と矢持ちはお堂のある一段高い石垣の上に並び、3メートルほど離れた的を射る。竹の下を残して弦を結んだのは、この石垣の高さが入れてある。弓の下は地面で支えるからだ。ほとんどの矢が的に当たる。 儀式の間、村の人々は大きなあわびの貝殻に盛ったおこわを箸でつまんでお供えしていた。それぞれの家で蒸したものだ。儀式のあと、家でよばれる行事食なのだろう。参拝者には甘酒がふるまわれる。 射終えると御神酒がふるまわれ、全員が輪になって手締め式で儀式はお開きとなる。手締め式の口上は
   ハア 打ッテクレエ ヨウ手シャンノ オシャンシャン
   モウ一ツ打ッテ ヨウ手シャンノ オシャンシャン
4時40分ごろ儀式は終わった。
※参考
『兵庫探検 民俗編』 昭和46年神戸新聞社刊・神戸新聞社学芸部著
「まとの神事」として、神社の境内に的を立て弓を引いて射る行事を県下で数十カ所紹介し、御崎もその中にある。起源の古い豊作祈願の呪法の一種で、 正月行事とある。「オビシャ」「魔当神事」「破魔」「百手祭り」などの呼び名があるらしい。御崎の百手は、源氏への恨みと平家再興の願いが古くから の呪法と重なったのかもしれない。 なお、香住町・香住町観光協会が昭和57年に『平家伝説の地 御崎』の簡単なパンフを発行しており、岡辻さんから頂いた。  

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