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2001年10月例会
開催月日 10月27日(土)

開催市町

日高町
テーマ 但馬最後の養蚕農家の暮らし
講師

森尾良一・美代子夫妻

場所 森尾さん宅 日高町頃垣
参加者 池口・伊藤・上田・太田・衣川・木村(久)・木村(昌)・粂井・島垣・高石・戸田・中嶋・中田・西村・浜野・細見・能登・和田 
担当 木村 上田 中嶋


■ 講師プロフィール
良一さんは大正12年日高町頃垣に生れる。
父・母・妹との4人暮らしだったが、父は良一氏が20歳のとき戦死。
その後、家族3人農業で生計を立てる。
昭和21年久田谷出身の美代子さんと結婚。
嫁ぐまで農業をされた事のない美代子さんと本格的に養蚕をされるようになったのは昭和37年の事。
お二人は現在、私達の知る限り但馬最後の養蚕家。

■ グロサリー
『種紙』・・・・蚕の卵を産み付ける5cm角の和紙。
        だいたい一枚に2万粒(10g)の卵が生みつけられる。
『はき立て』・・卵から孵った幼虫に初めて桑の葉をやること。
『稚蚕』・・・・はき立てから6日(1齢と2齢)程までの蚕。
        芽桑、又は人工飼料を食べる。
『桑こき』・・・桑の木の葉を摘む作業。
『口を揃える』・桑の葉の量を調整して、どの蚕の成長スピードも一律にする事。
『コモ抜き』・・糞尿の汚れを取ること。
『身に入る』・・蚕が脱皮前に全く動かなくなる状態。
『まぶし』・・・藁で編んだもので、その一マスの中に蚕一匹が繭を作る。
『回転簇』・・・ダンボール紙で出来たまぶし。156マスからなる。
        昭和40年頃から取り入られた。
『上簇』・・・・蚕をまぶしに入れること。
『熟蚕』・・・・はき立てから約25日たった蚕で、繭を作り蛹になる前の段階。
『天産』・・・・野生の蚕(野蚕)。家蚕よりも2倍ほど大きく、樫や椚を食べて育つ。
        その絹は緑色をしている。
『繭検定』・・・出荷の際、農協経済連の試験場で行われる繭の品質検査。
『解除率』・・・絹糸の品質検査の際にひく糸の切れる率。
『生糸歩合』・・繭1gあたりから取れる糸の割合。
        通常は20%で、残りは蛹の重さ。
 


■但馬地方の養蚕
18世紀後半、奥州の養蚕技術が向上したため但馬地方の生糸の評価が下がり下級品とされた。大屋町蔵垣出身の上垣守国によって奥州(福島県)から蚕種が持ち帰られて但馬地方に養蚕が伝えられ北近畿一円に広まったとされる。守国は寛政9年(1797)に豊岡の奥佐野で蚕種の販売を始め、「養蚕秘録」(上・中・下巻)を著す。(詳しくは大屋町の養蚕記念館で知ることが出来る)こうして広まった養蚕は但馬地方の農村部で長年にわたり盛んに行われてきました。
若い世代にはあまり経験ありませんが、昔に桑の実を摘んで食べた経験のある方は多いのではないでしょうか。(ただ、刈り桑と呼ばれる養蚕に使われる若い桑の木の実は食べてもあまり美味しくないそうです。)

■森尾さんと養蚕
森尾さんも幼い頃から養蚕を見てきて育ったとの事で「家中蚕だらけで人は屋根裏に住む有様」だったとおっしゃってました。森尾さんは、実際但馬最後の専業養蚕家ですが、国産絹の市場での競争力の低下に伴い10年近く本格的な生産はされていない様です。
第2次世界大戦で父が戦死。その後農業で生計を立てておられましたが、24歳で結婚され16年後に本格的に養蚕に取り組み始められました。当時は但馬にグンゼの工場が多く稼動しており、絹の需要が非常に多かったというのが始められた理由。

昔ながらの養蚕とは違い、大量生産を目指した養蚕方法で、藁のまぶしなどは使わず最初から回転簇を導入されたり、変温型稚蚕をされるなど非常に研究熱心で勉強会等にも積極的に参加される。当地の養蚕家の間でも常に最先端をリードしてこられた。そして全盛期の昭和45〜50年頃には年間1000kgを超える繭の出荷をされ表彰を何度も受けられた。 最高記録は2650kgだそうだ。

グンゼの絹購入量が減るにつれ、出荷先を神戸、出雲、京都、高知の絹糸工場に求められたが国産絹の需要低下が原因で森尾さんの養蚕量も減少。最盛期には1町5反(1反に桑の木約300本)あった桑園も今年は1反のみしか植えておられません。
その後、稀少価値の高い天蚕に切り替えられたりもしたようですが、卸し先が倒産し今ではされていません。ちなみに家蚕の絹糸は1kgあたり13,000円に対し、天蚕は1kgあたり50万円(繭1個50円)。
現在では、学校関係や個人に提供する程度の量を生産されるほか、絹うちわや、まゆ人形、置物などの民芸品や人口飼料のみで育った蚕の羽を薬品会社に供給されるなど、数々の商品開発に力を注いでおられます。
 


■神鍋(日高町)の養蚕
神鍋の養蚕は年間9〜10回行われていました。春の5月中旬の春蚕に始まり7月中旬の夏蚕、8月末の秋蚕、9月の晩秋蚕と、それぞれの季節の間、日をずらして1〜3回蚕を飼う。種紙は通常高知県から購入し、各村で種紙の購入時期を数日ずらしながら繭の出荷日を調整。上簇してから2週間で蛾が繭から出てしまうので10日目に出荷するのが通常。以前は農協の飼育場で稚蚕のみ行って養蚕農家に蚕が渡されていた時期もあったが稚蚕飼育費がかかり過ぎるので途中から中止された。

蚕ははき立てから、1齢〜5齢と5回の脱皮を経て熟蚕となる。脱皮する前には1日身に入ってエサを食べなくなる。通常1日4回、6時間置きにエサを与えるが、温度調整をする事により口を揃えながら、蚕の成長を一定にする。熟蚕した時点でコモ抜きを行い回転簇に上簇させ出荷を待つ。
藁のまぶしだとコモ抜きが大変で繭も汚れやすいくなる。汚れた繭は二級品として扱われるので商品価値が下がってしまう。また、回転簇は吊るすので、風通しも良く蚕が病気にかかり難くなる。
昔は「立ち木」と呼ばれる桑の大木に9段のはしごを架けて桑の葉を取っていたが、背丈の低い若い「刈り桑」から桑こきをする。この仕事は主に男性が行っていた。稚蚕の段階では「芽桑」という柔らかい桑の葉を与える。また、芽桑の他にゼリー状の人口飼料をやることもある。

頃垣では、全盛期には50軒中50軒が養蚕に携わっていたという。もちろん、現在では森尾さんご夫婦のみとなっている。最後に「何故今でも続けておられるのか?」と尋ねてみたところ、「長年やってきたので、今さら他に何も出来ない。」という答えが返ってきた。後半は、森尾さんの作業場を見学させていただいたが、養蚕場というよりも鉄工場という印象を受けたが、手先の器用さとアイデアの豊富な良一さんが前衛的な養蚕家として常に新しい技術や道具を自分で開発されている姿を見ると妙に納得させられた。

最後に「見様見真似でこの人が作りました」と言われる糸巻機で美代子さんが繭から糸を紡いで見せてくれました。そして、その作業場の壁にはお孫さんの描かれた美代子さんの糸を紡ぐ姿の絵が掛けられていました。その絵には但馬最後の養蚕家の生き様、そして18世紀から但馬全域で盛んに行われていた養蚕の歴史が覗えるように思われました。

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