| 開催月日 | 12月8日(土) | 開催市町 |
生野町 |
| テーマ | 生野の歴史を語る | ||
| 講師 | 藤本 博 |
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| 場所 | 生野町民会館(マインホール) | ||
| 参加者 | 島垣・太田・木村・守本・中嶋・能登・浜野・高石・西躰・藤原h・衣川・中田・藤原j・粂井・栃尾・山本・友田 | ||
| 担当 | 太田 木村 衣川 | ||
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【講師プロフィール】 大正8年、生野町に生まれる。元鉱山関係者、銀山友の会会長、但馬史研究会理事、生野町資料館元館長。現在、生野町案内役ボランティアをされている。 ■ 生野の歴史 生野は昔「死野」と呼ばれていたことがあった。(播磨国風土記)その名前の由来 には3つの説がある。 1 田畑のないところで人が住まなかった。交通の要所ではあったが、民家がなかったので盗賊に襲われ、怖いからその名が付いた。 2 鉱毒があって、人の住めるところではなかったから。 3 市川が氾濫して、よく大水がでて人の住めるところではなかったから。 私としては3番目の理由が1番納得ができる。地面を掘ると石ころだらけであったと思われる。播磨国風土記では垂仁天皇が「死野」ではなく、「生野」にするようにといわれたと残っている。1000年前くらいでは、人は住んでいなかったと思われる。 生野は鉱山とともに栄えた町なので、鉱山がなければ人が住んでいなかったのではと思う。 生野の鉱山は、大同2年(807)に銀鉱が発見された。日本に仏教が入ってきて定着した時代、聖武天皇が東大寺に大仏を建立したのも、大同年間のはじめであり、奈 良朝時代の終わり頃にあたる。大仏の材料は銅。中国から銅を持ってきていた。銅銭が流通していた時代である。銅が足りないということで、近畿地方で銅が出そうなところを探して掘り出した。その調査団が生野にも来た。生野には銀はあるが銅なはい。大屋町明延では銅が出た。すぐに掘り出し、奈良へ運んだ。仏像は銅の上に金メッキする。だから、仏教では金と銅が大切で銀は用途がなかった。生野の銀は掘らないままでおかれたと言い伝えられている。実際に脚光を浴びるのは700年あと。天文11年(1542)に銀鉱の採掘が始まっている。 西洋の文明が中国、韓国に入り、鉄砲が発明され、日本に入ってきた。中国では銀を持ってヨーロッパに行った。中国では金はあまり出ず、銀がよく出た。日本では金が出ていた。だからマルコポーロは「東方見聞録」で日本を黄金の国ジパングとあらわしたと思われる。 鳥取県太田市石見銀山で最初に開発し、銀を掘り出し、朝鮮半島から中国へと渡った。生野に銀があるから掘り出せと石見の人が掘り出したと伝えられる。 権力者が銀山経営を行うようになり、人々が鉱山に集まり始めた。この時代、戦は槍、刀、弓などで行われていた。鉄砲が入ってきて、火薬を手に入れたいと武将たちは思った。物資の流通は米。金や銀を持っていかないと鉄砲や火薬は売ってくれない。関西はあまり金がなかった。しかし、銀はよく出た。そこに織田信長は着眼した。但馬を攻めろと秀吉に命令した。それは生野銀山を手に入れることが目的だったといわれている。生野銀山は織田信長の支配下におかれたが、本能寺の変で失脚、のち豊臣秀吉、1600年関ヶ原の戦いのあとは、徳川家康が直轄地として支配した。 徳川は流通のもととなる貨幣をつくった。金、銀、銅を支配下において、他の大名にはもたせなかった。生野でとれた銀は大阪へ送った。代官所をおいて管理をさせた。米のとれない生野に関係者6000人、周辺の人も入れると1万人以上の人が住んでいた。生野銀山で働く鉱夫や関係者の人たちの食料を確保するために、朝来郡、養父郡、宍粟郡、岡山、美作のお米を生野に運ばせて安い料金で配給した。5つの郡を直轄の領地、天領とした。銀さえ掘れば、食料は心配いらなかった。 生野銀山の土地は徳川幕府のものであったが、経営は民間に任せた。代官所へ山を掘らせてほしいと申請し許可を得た人を山師といった。山師は鉱山経営者となり、採掘した銀鉱は全量代官所に納入。代官所は10%を税として徴収し、90%は貨幣で山師に支給した。代官所は銀鉱を灰吹銀に精錬し、大阪の銀座に送り銀貨にした。これを幕有民営方式という。 金 1枚 = 銀 4枚 = 銅 1000枚 金1:銀4:銅1000 銀1:銅250 明治元年(1868)日本政府ができた。金の佐渡、銀の生野鉱山は明治政府直轄の官営鉱山となる。西洋の技術を入れて増産する政策をとる。その頃、1番技術が進んでいたのはフランス。フランス人の鉱山技師コワニエを生野に招いた。今の三菱の工場のあるところに金銀の精錬所を建てた。 明治4年播但一揆が起った。 起こった理由 1 たくさんのフランス人が姫路から生野に来るのに、大名クラスの対応をした。フランス人が通 るたびに土下座しなければならないことを嫌った。 2 明治維新の時の官軍が政府が復興したら年貢を半分にするといっていた約束を守らなかった。 3 運送業務で仕事があったが、官営になると仕事が取り上げられた。 4 同和問題 福崎の農民が主体となって陳情した一揆。40%は生野へ押し寄せ、60%は姫路へ行った。そして、コワニエがつくった精錬所を焼いてしまった。 明治22〜23年、議会が開かれ、佐渡、生野銀山は宮内省皇室の持ち物にすることになった。明治29年まで宮内省で経営されたが、29年民営化が叫ばれ、三菱会社へ払い下げられた。 鉱石、石油、石炭などは下へ掘っていけばいくほど経費がかかってくる。採算が合わなくなってきた。生野銀山は地下800メートルを超え、時間も経費も甚大となった。昭和48年(1973)生野銀山は閉山した。今は坑道の下は水に浸かっている。第3セクター(シルバー生野)として観光地となっている。年間12〜3万人の観光客が訪れる。生野書院には生野銀山の資料などがたくさん展示してある。 ■ カラミ石 鉱石を製錬したあとにでる排泄物を固めたものがカラミ石。最初は捨てていたが、固めて冷やすと黒くて堅い石ができる。もったいないので石垣や家の土台に使うようになった。大正7年に精錬がやめになって、それ以降はつくられていない。今は貴重なものになった。成分的には鉄で、非常に重い。さびるときれいな赤銅色になる。生野義挙の碑や時計台の下に使われて残っている。家を建て替えるときや石垣をつぶす時は、町にいう。カラミ石を町のものにするようになっている。 ■ 円山川の源流 倭文神社の伝説 播但道の登り口に倭文神社(しどり)がある。織物の神社、農業の神社といわれ、別名さけのみや神社と呼ばれる。式内社は但馬で131社、朝来郡で9社、その中の一つ。源平時代から西の谷にあげたお社があった。移ってきたお祝いをしている時に、鮭が登ってきたと伝えられている。めでたいということから「かけのみや」となった。当時は鮭を食べなかったという。その頃、円山川は和田山竹田まで舟が登ってきていたと思われ、鮭も登ってきたのではと想像できる。 ■ 但馬と播磨の境界 播磨風土記には生野までが含まれている。生野は但馬と播磨の国境。6代山名祐豊の時は市川に流れる支流・両国川を国境と定めて、城を築いた。権力者の意向によって国境は移り変わってきた。 ■ 杉・ヒノキの植林 日本はヨーロッパからたくさんのお金を借りまくっていた。明治27年日清戦争に勝ち、中国の賠償金で借金が返せると思った。ところが台湾が日本の領土になったが、お金がもらえなかった。固有財産を売却して借金を返した。この国有財産が炭坑や造船所、鉱山であった。生野銀山も明治29年に三菱に売却された。当時のお金で7万円を神子畑、生野でもらった。神子畑1000円、生野6万9000円が入ってきた。生野はこのお金を銀行に預け、その利子で植林した。この植林した杉、ヒノキを売って学校などを建てた。当時、復興のための木材が必要で儲かった。南但は植林は儲かるとどんどん植えた。 ■ 朝鮮の人たち 終戦の頃に朝鮮の人たちは100人くらいいた。三菱は朝鮮半島に10ほどの鉱山を持っていた。そので働いていた知り合いを生野に連れてきた。古くからいる人は三菱になじみがあった。社宅にすんでいた。私の小学生の頃、同級生50人中に4〜5人くらいいた。 |