おかき作りの習慣とその変遷の様子を、創業当時の苦労話や商品開発秘話、
人々の「おかき」の捉え方などを交えつつ、いろいろお話いただきました。
■ 農村とおかき
お正月と節分のお餅作りは、農家ではごく当たり前に行われていたことだった。お正月には鏡餅や小餅を、節分にはあられや「餅花木(もちばなぎ)」
を作る。農閑期の冬に作った「おかき」は、1年間のおやつとなり、蓄えたおかきを、夏の農作業の合間に食べたりしていた。
「餅花木」とは黒文字の木に小さなお餅をつけて、花の芽ように見立てたもので、今でもそれが継承されている地域、家庭もある。
■ 但馬のおかき屋と生業への移行
但馬に最も多くの「おかき屋」があったのは、昭和30年後半〜40年代にかけて。当時、但馬には35、36軒の「おかき屋」があったが、現在は4軒を残すのみ。
そのうち、50年来おかきを作り続けてきたのは、玄武堂さんと、丹波屋製菓さん(豊岡市内・ご夫婦で経営)の2軒。他2軒は、ここ10〜20年に開業。
昭和30年代半ば頃、但馬のおかき作り人口は多かった(同じ時期、京都府のおかき屋軒数は35〜45くらい)。その理由は・・・
1)戦後、食料の絶対量がな い時代、都市部よりも原料が豊富
2)戦前、口減らしのため京阪神へ丁稚へ出た人たちが、戦後、身につけたノウハウとともに故郷へ戻ってきたことな
どがあげられる。
農家の慣習だったおかき作りが、生業へと変わっていったのは、但馬の風土的な特性ではなく、戦後の物不足の中で、何とかして生きていかなければならな
い、という必要から生じたものだった。むしろ、湿気が多く夏は蒸し暑い但馬の気候は、おかきを作るのにはあまり向いていない環境だったといえる。
また、戦前よりたくさんの但馬の人々が京阪神へ丁稚で出ていたということは、但馬で寒餅が商品化するよりも先に、京阪神では商売としての「おかき」が
成立していたのではないかと推測できる。創業者の岩本さんのお母さんも、小さい頃、京都で奉公していたことがあったのだそう。
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