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2004年3月例会
開催月日 3月27日(土)

開催市町

養父町
テーマ 地域医療・昔と今 −半世紀以上に渡り僻地医療に携わって−
講師 井上 弘医師(養父町浅野 大正5年生まれ 88歳)
場所 養父町公民館 B研修室
参加者 能登 衣川 友田 中田 西躰 和田 島垣 粂井 高石(+会員外1名)
担当 高石 粂井

井上弘さんは、1916年(大正5年)養父町に生まれ、現在88歳。 京都府立医大卒業。戦中は軍医として出征、敗戦後ラバウルより九死に一生を得て昭和21年春に帰国、その年の11月、30歳のとき村人に請われて養父郡建屋村野谷で開業。まもなく生地の稲津にて開業、浅野に医院(5ベッド)を新築したのが1960年44才の時。
1985年に浅野の医院を長男に譲って建屋の僻地診療所に86歳まで勤めておられた。半世紀以上にわたり養父町の地域医療を守ってこられたドクターである。 「無作」(仏語で天真爛漫の意とのこと)と題したエッセイ集から所々引用されながら、終始にこやかに穏やかなお話ぶりである。

町史には開業医のことはほとんど書かれていない。養父町には2軒、大屋町では明延には20床ほどの鉱山病院があったが、大屋、若杉、夏梅に開業医がいた。「文化は上流から流れてくる」と言うが患者も川の上流の地域から通院してくる方が多かった。最初は小型バイクや自転車で、1950年頃からは500ccのバイクで往診していた。急病人を豊岡病院や京都の病院まで送って行ったこともある。
養父町のほか大屋町横行、若杉、明延など30キロもある各地へ往診もされた。国民健康保険制度ができるまでの医療費は医師会の協定で決まっており、往診料は距離あたりの料金があった。医療費は盆と正月の節季に支払う人が多かったとのこと。
往診にまつわる苦労話、面白い話がたくさんあり、「無作」でも随所にそのことが書かれている。しかし、往診も苦労と思わず、家族とコミュニケーションを深め、帰りにスケッチをしたりしていたとのこと。
但馬ならではの病気といっても特別のものはないが、昔は寄生虫とくに回虫が多く、回虫を吐き便が全部回虫だったりした。また結核が多かった。
「僻地ということを感じたことがない。」「人情と昔ながらの生活に囲まれた人生で、自分の好きなようにやっていい目をしてきた。但馬の人間性に相性が良かった。」
「医者は仁術であり金儲けなどではない。心を治し、村の争いも治める。」
音楽と絵画は子供の頃からの趣味とのことで、戦地でもたくさんのスケッチを残されているし、自宅には女性モデルの油絵がたくさん飾られていた。
ビバホールで隔年に行われる全日本チェロコンサートの話など音楽や絵の話では目を細めて楽しげにお話されていた。
「毎日生きていたらそれでよい」という言葉が印象に残った。

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