| 開催月日 | 8月23日(土) | 開催市町 |
豊岡市 |
| テーマ | 豊岡病院の歴史 | ||
| 講師 | 小松久員(元豊岡病院精神科看護長)高石俊一(但馬学会員、豊岡病院副院長) |
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| 場所 | 公立豊岡病院 豊岡市立野町6-35> | ||
| 参加者 | 島垣、太田、中田、浜野、友田、藤原次、木村昌、岩本、上田、能登、戸田、木村尚、中安、成田、会員外1名 | ||
| 担当 | 高石、衣川、西躰 | ||
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■ はじめに 平成17年春に予定されている公立豊岡病院の移転・新築に伴い、病院としての役割を終える円形建物と、旧精神科病棟を見学させていただきました。精神科とともに歩んできた小松さん、そして現在、医師としてお勤めの高石さんを講師に、開設当時から現在までの精神科のお話をうかがいました。 ■ 豊岡病院・精神科の歴史 明治4年 廃藩置県で豊岡藩は豊岡県に。現豊岡市豊田辺りに、豊岡病院の前身ができる。医局開設時に作られた布告文の石碑が、円形建物の前庭にあり、“医局を作ったので病気の人は来なさい”という意味のことが書かれている。 昭和8年 今の場所(豊岡市立野)に医局が移転。移転前には、川(旧円山川)より向こう側の、“辺鄙な場所”への移転に批判もあった。 昭和30年 新本館が完成。円形三階建鉄筋コンクリート造り。翌年、精神病棟102床が新設される。小松さんは、精神科最初の看護士として、この時に採用された。 円形外来診療棟は世界初、外来診療棟と入院病棟の分離も日本初という当時としては珍しい病院だった。精神科の設置には、地元、院内とも、異議が出ていたが、当時県北部には精神科がひとつもなく、診察には県南部の病院まで行かなければならないという事情も、精神科が設置される要因となった。 昭和37年 豊岡病院付属の看護学校開校。病院で働きながら勉強できる学校で、全国から生徒が集まってきていた。小松さんはその第一期生。 昭和47年 高石さん豊岡病院精神科へ着任。 昭和58年 現在の精神科病棟(100床)新築。(この建物も見学)但馬では公立病院が地域全体をカバーしているが、これは、全国的に見ても珍しいことなのだそう。 ■ 円形本館と旧精神科病棟見学 ◇入院病棟から外来診療棟へ 廊下の途中、外来診療棟(円形建物側)に向かって下っている緩やかなスロープがある。それは、円形建物側の地盤が沈下したために出来た段差なのだとか。もともと軟弱地盤のため、円形建物の下は松の生木をたくさん埋め立ててある。 ◇円形建物 半螺旋状の階段は、建築学的にすばらしいと言われている。また、プリズム仕掛けの天井裏には、多数のワイヤーが張ってあり吊り天井となっている。思いがけず、天井裏と円形建物屋上も見学することができた。 円形建物では作れる部屋数が少なく、外来患者数が増加した現在では、診察の待ち時間が長くなる原因にも。1階から3階までが吹き抜けのため、下階は夏も冬も寒く、逆に上階は夏も冬も暑い。現在も使用されている円形建物としては、但馬では温泉小学校がある。 ◇旧精神病棟 監視窓のついた独房のような部屋(=旧保護室)には、多数の落書き。格子状の針金が入った窓や、1人が1畳ほどの共同部屋などを見学。現在は医療関連の書類が山積。 |
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■ 精神科に携わって42年・・・精神科に勤めたきっかけは? 平成10年、定年で病院を辞めて5年になる。高校を卒業した昭和31年に、一般事務職で、豊岡病院に入った。面接時、初代医局長に「殴られてもいいか?」と聞かれ、「変な質問をするものだな」と思った。精神科に配属されるとは、思ってもみなかった。この年、男子4人が看護者として精神科に採用された。新しい病棟は大変きれいだった。 当時の治療法は、ショック療法が主流。患者さんは、電気ショックをすごく嫌がる。嫌がって、中庭を逃げ回る。看護者の小松さんはその後を追う。ロの字型の中庭は、比較的開放的だった。病棟はその中庭を囲むように建っている。 患者さんと仲良くなり、友達という意識で接していた。一緒に遊ぶ、一緒にお風呂に入る。一面では楽しかった。患者さんと異なるところは、看護者が鍵を持っていること。そして病気ではないこと。でも、違いはそれだけだった。「精神科の患者さんは怖いものだ」という世間のイメージは、非常に根強かった。とはいえ、やはり患者さんも一人の人間。小松さんは、怖さは感じなかったという。ただ、閉じ込めて治療をするというやり方が嫌だっただけ。何か他によい方法はないものか、といつも考えていた。 もっと自分に知識をつけて、患者さんに接してあげたい。昭和37年、その年開校された看護学校で学ぶことにする。病院で働きながら、正看の資格を取得した。その後、退職までの42年間、精神科の仕事に携わってきた。 ■ この仕事を長く続けられた理由は何でしょう? 患者さんの社会とのかかわりを、何とかしてあげられないか?その思いが強かった。世間に偏見を持って見られている人たちだが、その偏見を医療者だけでもなくして接していかなければ。社会で行われていることを、病棟内にも積極的に取り入れる必要があると感じた。 病棟の屋根を越えて逃げ出す患者さんがいたから、屋根には有刺鉄線が取り付けられた。常にいたちごっこだった。でも、出来るだけ生活の場、居住地に近い雰囲気をつくり、娯楽室や食堂なども、明るい生活空間となるよう心がけた。少しでも暗い雰囲気を軽減し、改善させたかった。 建物が木造の時はもっと劣悪な状態だった。窓には鉄格子があり、暗く、冷たい、保護室。寒くて亡くなった人や、自殺した人もあった。 民間病院も保護室はひどい感じだった。馬小屋みたいなところもあった。窓には格子があり、網目状の針金が入ったプラスチックがはめられている。でも、当時はそういう劣悪な環境で保護する(隔離する)のが当たり前という時代だった。 10年間運動して、やっと新しい病棟が完成した。今の病棟に格子はない。窓の作りにも工夫がなされている。中庭へ出る格子が省かれた。今の新しい病棟は、患者さんの住みよさが考慮されている。明るく、そしてより開放的に! ■ ショック療法(いわゆる電気ショックとか)って? 小松さんは、10日間くらい京大病院で研修を受けた。手順は、まず口にタオルを咥えさせ、顎を介助する。こめかみに電気を流す。これで人為的に癲癇の症状を起こす。一次無呼吸状態になり、顔が真っ青になる。もし息が戻らなければ人工呼吸。頭に通電させる療法。この治療で、頭がすっきりするからやって欲しいという人もある。でも、すごく頭が痛くなるから嫌がる人が多い。ここ30年くらい豊岡病院では電気ショックは行っていない。 理由は、現在は薬の方が安全でより効果があるから。とはいえ、電気ショック療法は、精神の興奮を鎮めるのには、一定の効果があった。うつ病治療の最終手段でもあった。 今もショック治療を行う大学病院などもあるが、麻酔科が管理し、麻酔をかけて寝ているうちに行われる。無痛性の新しい療法が使われている。電気ショックの他に行われていたショック療法にインシュリンショックがあった。低血糖にしてショックを与える方法で、インシュリンを多量に(5CCとか)与えて、ショック状態を起こし昏睡させる。覚醒の際は糖分を与える。ただし、肥満になるという副作用も。 |
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■ ライシャワー事件を受けて・・・ ライシャワー駐日大使が、精神障害者に刺された。日本の精神医療が不足していることに危機感が募る。国は、「医者は一般科よりも1/3、看護婦は1/6でいいから、とにかく収容施設的な精神病院をたくさん作れ」という動きに。そうして民間の病院が多く開業された。総合病院の精神科は極端に少ない。“首から上”が無いような病院は、総合病院とは言わない。脳外科とか、精神科とかなかったらトータルじゃない。でも医療法上は、耳鼻科・眼科・内科・外科・婦人科小児科があれば総合病院という。国は単科精神病院を増やした。単に患者を閉じ込めてるだけの精神科へ対しては「日本の精神科は牧畜業者だ」という揶揄もあった。 ■ 「精神科」って、どんな存在だったのか 昔は家族ですら病院へ来なかった。それだけ偏見が強かった。昭和49年精神科病棟を開放病棟に編成変えするにあたっては、立野区と懇談会がもたれた。地域住民の理解は、不可欠だったからである。パトロールの実施や、緊急電話の設置などが協議された。実際に、患者さんが問題を起こすこともないではなかったが、地域からあった苦情、問題の多くは、溝掃除など、病院の地域活動への取り組み姿勢に対してだった。 何かあった時のために、と設置されていた精神科の直通電話が鳴ったことは一度もなかった。精神科はいわば保安施設で、当初は、警察の強い要望があった。今は、家族や地域の見方が変わった。保護のための病院、社会の安全のための病院(収容施設)からの脱却が始まった。精神科、病院内の治療は、昔と大きくは変わっていない。地域の受け皿や理解が変わってきただけ。 ■ 精神病への理解 この20年で、入院は、本人の同意を得る傾向に変化した。昔は家族が隠していることが多く、入院も周囲の判断で決まるのが大半だった。病院は、いわば駆け込み寺であり、患者さん本人の意向は無視された。入院させるための往診もあった。丹後には精神科がないため、但東・久美浜・峰山・網野などへも往診していた。 かつては知的障害の人も、結構たくさん入院していた。社会から逸脱した人たちの収監所だった。出石の精和園が出来てから、知的障害の人はそちらへ入るように住み分けが出来てきた。 親が子供を脅す怖いものの象徴として、養護施設や精神科をあげたりするが、子供に無意識に偏見を植え付けてしまうことになる危険性を孕んでいる。 ■ 地域性と関係のある病気はありますか? 但馬に特徴的な精神病、というのが存在するわけではない。今最も多い病気は、総合失調症。(旧称:精神分裂病) 大半の患者さん(6〜7割)がこの病気。 10代後半〜20代前半の若い時に発病する。「出立ちの病」とも言われ、人口の1000人に7,8人ほどの発病率である。 京阪神などでは各地域ごとに精神科のクリニックなどがあり気軽に精神科にかかることが出来る。但馬では、精神科がそれほど開かれた存在にはなっていない。「ストレスドック」 とかいうのもやったりしているらしい。それも精神科の分野。 ■ 「芸術療法室」という部屋があったけど、芸術療法とは? 絵を描いたり、カラオケをやったり、デイケアに取り入れていた。現在豊岡病院には、専門の療法士さんはいないため、外からボランティアの講師さんに来てもらい、お花・書道・茶道などを教えていただいた。その先生の生徒さんを介して、精神科の内情、様子が、病院外へも広まる。これまでの、精神科への偏見が減る。患者さんにとっても、また、精神科の患者さんへの偏見を減らすという意味でもよい取り組み。 | |
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■ おわりに ・・・所感 思いがけず、円形建物の屋上へ。いつもは見上げている円形建物の屋上から、ぐるりと見渡せた豊岡の町並みが、とても新鮮でした。 普段は見られない建物の裏側。そして、触れることのない内情。それらを見聞きできたことは、私にとってとても貴重な経験でした。長年精神科の患者さんを支えてこられた小松さんと、高石さんのお話を聞けたことで、私の中で漠然としていた“精神科”へのイメージが少し明らかになったような気がします。 患者さんへの偏見をなくしたい、もっと人間らしい生活にするために何とかできないか?とひたむきに取り組まれてきたからこそ、今の開放的な建物と雰囲気、地域の理解も得られる精神科が作られたのだということがわかりました。 今回のお話で偏見がなくなったかというと嘘になります。でも、何も知らずにいた時よりも、小松さんや高石さんの視点を通して、精神科の歩みを垣間見ることができたことは、理解を深める上で、非常に意義のあることでした。理解不足からくる恐れや不安が、偏った見方につながります。そういう意味でも、地域の理解を得るために、院の内外で交流することは重要だと思いました。 現代は多くの方が心に悩みを抱えています。もっと、誰もが気軽に通える精神科が望まれているはずです。小松さんや高石さんは、その早期実現を目指して、尽力してきた(ている)のだと感じました。 みんな同じ人間。患者さんだからって、何も特別なことはないんだ。と、小松さん。私には、まだ心のバリアフリーが必要なようです。 |
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