| 開催月日 | 1月22日(土) |
開催市町 |
日高町 |
| テーマ | 「古文書に見る但馬の水災害」 | ||
| 講師 | 山口 久喜 氏(豊岡市史料整理室) | ||
| 場所 | ワークピア日高(日高町商工会館横) | ||
| 参加者 | 中田 木村 浜野 細見 峠 能登 中嶋 高石 椿野 藤原次 島垣 成田 中田 菊池 本田 藤原(会員外) |
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| 担当 | 友田、細見、峠 | ||
| 今回の台風で大きな爪あとを残した円山川だが、但馬は昔から洪水のあった地域である。先人はどんな風に水と闘ってきたのか、先人から学ぶべきことはないか。古文書から丹念に水害の記録を調査されてきた、豊岡の歴史の第一人者にお話を伺った。 | ||||||
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| 中流のない川、円山川 但馬の水災害といえば、どうしても円山川。『豊岡市史』には「10年に一度」と書かれているが、統計によると円山川大改修以前は「2年に一度」洪水が起こっていた。それほど 水災害が甚だしい川である。 では、なぜこれほどひどいのか。 円山川は構造上、特異な川である。円山川には上流と下流しかない(中流がない)。 上流は、日高町松岡付近まで。川は上流からある程度の勾配を持って流れてくるが、松岡付近からはほとんど勾配がなくなってしまう。盆地部を流れる部分はまさに下流で、流れてきた水があふれる。旧河動にその痕跡が見られるように、暴れ川となって蛇行するのである。実際、大正末期から昭和初期にかけての円山川大改修は下流部のみ行われた。 また、普通なら、その先には海が控えており、水を拡散してくれるはずだが、円山川の場合はそうではない。玄武洞付近が河口で、その先は、下流部の延長とも言うべき細長い入り江にすぎない。ここでも流れる水が停滞してしまうという特異な構造になっている。これが、盆地部に水害をもたらす原因と考えられる。 | ||||||
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| 古文書に見られる大洪水 文書の記録から類推できる災害の記録は、平安時代初期までさかのぼる。延暦23年(804年)、「但馬国冶(但馬の国の事務を取り扱う役場)が高田郷(日高町役場付近一帯)へ移された」という記録。なぜ、どこから移されたかは書かれていないが、第一次は現在の府中、府市場あたりではないかと類推される。水害で河道が変わったため移されたのではないか。その西側は、条里制を示すきちんとした田んぼだが、府中、府市場は、地籍が乱れきっている。いったん川になった形跡がある。現在でも、明らかに地層が違ったり、航空写真で見ると黒くなっている。古い地籍図でも乱れている。 1573年以降、約260件の台風が記録されているが、資料がなく抜けているものもたくさんある。特に、明治40年の台風の記録が抜けている。当時の新聞が「古今未曾有」と報道していたことがわかっているが、不思議なことに資料がほとんどない。 それまでの「前代未聞」は、嘉永3年(1850年)のものであった。 嘉永3年には4度も洪水が起こっている。 洪水に関して記された最も詳しい文書、奈佐の宮井村「三宅家(奈佐組代表庄屋)文書」 によると、小田井から本流、旧河道にそって家が流されたという。 豊岡の城下町は、円山川廃川の自然堤防の上に発達した町。時代が下るにつれ(江戸時代ごろになると)、治水成果があがったことや、自然堤防の発達により、河道が固定化し、暴れ川が沈静化してきた。 川があふれると、土砂を持ち込む。これが続くうちに、土砂が盛り上がり、自然堤防が形成される。この自然堤防上は水がつかない。昔から、集落が発達するのは、山沿いか自然堤防上だった。生活の知恵で、水の付かない場所に家を建てていた。伊勢湾台風でも、今回の台風でもこの部分は水が付いていない。ところが、嘉永3年の洪水では、この部分の家も流されている。本来水が付かないような場所を選んで家を建てても流される。生活の知恵、予想を超えた大災害であった。 しかし、昔と今ではデータの基準が違うので単純な比較は出来ないが、被害状況や被害の広さを考えると、今回の台風23号こそまさに「前代未聞」であったと思われる。 「若宮土堤」「灘千軒流失」については、史実として裏付けるものがない。伝承に過ぎないのではないかと考えている。 | ||||||
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| 現実の受容 豊岡の河谷(こうだに)村と梶原村の取米(とりまい:年貢)の記録より。 河谷村は広い六方田んぼの東側に位置。梶原は六方川、鎌谷川、円山川といった河川が集中する箇所にある。昔から、河谷村の前に広がる六方田んぼは遊水地として裏付けられている。梶原村にはいくつもの河川が集中し、氾濫原と位置づけされていた。 誰がきめたわけでもなく、だれもが自然にそういう形を受け入れざるを得ない状態だった。 治水の必要性がわかっていても、それにかける資金も技術もない時代、やむをえない現実としてのみこまれていた。 河谷村の場合、水が稲にかぶらない程度でおさまってくれるとよいが、稲の穂に達すると、収入が激減する。梶原村の場合は、氾濫原なので、田畑を置くことはできない。その周辺も、いったん出水すると、ひどい損害を蒙った。記録によると、いずれの村も標準の年貢を取られたためしがなく、収穫皆無といってよい年もあった。 | ||||||
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| 江戸時代の治水の跡が典型的に残っている大保恵堤 日高町上郷に、江戸時代以来の治水対策のあとが典型的にそのまま残されている。まず、朝靄にけむる円山川、橋と結びついて1つの情景を形成している上郷橋周辺の河畔林。 洪水の水流を少しは妨げ、田畑の表面を削る度合いを少なくすると期待したのではないかと、推測される。それがそのまま大きくなって河畔林を形成している。 この河畔林は人工林か自然林か。国土交通省でも調べがつかなかったが、おそらく個人の私有地に植えられた人工林だろうとのこと。大洪水になると、水流の妨害物になるので、国有林なら大きくなる前に伐採されているはずと。 もう1つ。鶴岡橋のすこし下流に現在でも名残りが見られるのが、江戸時代の堤防、大保恵堤(おおぼえてい)である。 現在の堤防と違い、ごくささやかな人工堤防。洪水のとき、水はこの堤防を乗り越えて入ってくる。そして、次の備え(現在の県道482号)がかなりりっぱな堤防の役割を果たす。そして、その間は遊水地と設定し、田んぼは作らず、畑にする。守るべき集落は、この二段階の防御線の向こうにある。 大改修が行われた地域のものは、大堤防の下に埋もれているが、大保恵堤は、もう少し上流部から豊岡盆地にかけて作られていた。完全に一本につながらず、ところどころ断続しており、そこから水が出て行くことを認めている。無理にせき止めず、水の勢いを遊水地に引き入れて弱めてやるという、遊水地の思想に基づいて作られている。 豊岡藩は小さな藩でありながら、円山川全線の測量を行い、領内の円山川の絵地図、各ポイントの深度表などもつくっている。技術と資金がなかったので実際にさまざまな工事ができたか、実績が上がっていたかどうかはわからないが、意欲は大きかったと見られる。したがって、明治に入り、河川管理が国に移ると、とたんに円山川大改修の陳情を始めている。 この大改修については、問題があったと感じている。支流を付け替えた箇所が2か所あるが(六方川と八代川)、その2か所に、後の世に巨大な水門が建てられている。支流の付け替えそのものにミス、もくろみの食い違いがあったのではないか。調査をお願いしたが、昔のことでよくわからないという回答であった。 | ||||||
| 先人に学ぶ洪水との付き合い方とは? 今回の洪水では、人家が集積した場所で水の付かなかったところは、すべて江戸時代から人の住んでいた場所であった。水の付かないところに家を建てていたので、当たり前である。 遊水地や氾濫原は、諸条件から、止むを得ざるものとして当然のように受け入れた台風の受け入れ方である。「水の付かないところに家を建てる」「水が付くところには建てない」という生活の知恵。こうした江戸時代の水害に対する心構えを今日に活かすべきと考える。 少なくともその考え方を思想として治水行政を進めるべきと主張している。 具体的には、遊水地を指定し、遊水地に対する建築基準を見直す。つまり、遊水地域内に家を建てることを原則として禁止。どうしても建てる場合には土盛りを義務付けるのである。憲法上難しいのであれば、少なくともその精神を基準として対応してほしいものである。 巨大な予算を組んで頑丈鉄壁の堤防を作り、川をその中に閉じ込めるという今のやり方は、鉄壁である限りはいいが、今回のように破堤したときの被害が大きく、内水被害も軽視できない。従って、鉄壁の堤防を築くという考えは改めた方がいい。ある程度、水があふれ出るのは止むを得ない。あふれ出る範囲を制御するという考え方で治水行政を進めてほしいものである。 | ||||||
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| 例会を終えて 但馬学も少なからぬ会員が今回の台風で大きな被害を受けたが、鉄壁の堤防より、山の対策など総合的な対策を求める声が多い。そのため、今回のお話は共感を持って聞くことができた。遊水地を指定するのは難しくても、元々豊岡ではどういうところが大丈夫でどういうところが付いているという情報があると、住民が自分たちで判断できるのではないかと感じた。 |