2005年3月例会
開催月日 3月26日(土)

開催市町

浜坂町
テーマ 「川の記憶・味原川物語」
講師 岡部良一氏(味原川清流会会長・以命亭館長)
場所 加藤文太郎記念図書館・以命亭
参加者 会員:島垣、木村、能登、中田、浜野、守山、西躰 会員外1名
担当 西躰、粂井、中安、木村

川はかつて、人々の生活の場であり、子どもたちの遊び場であり、信仰の場でもあっ た。しかし上水道が普及し、川とともにあった暮らしは姿を変えた。川にはゴミがあ ふれ、水は汚濁した。「あのころの美しい川、川のある暮らしを取り戻したい」と地 道に活動をする人たちが、浜坂町(現新温泉町)にいる。

活動の中心人物である岡部良一さんは、かつて中学校などで教鞭をとり、現在は味原 川清流会会長と先人記念館以命亭館長をされている。本例会では、川とともに栄えて きた浜坂の歴史や昔の暮らしぶり、治水の歴史などについてお話をうかがった。ま た、実際に味原川横に整備された「あじはら小径」を歩き、古い石積みの続く町並み を散策した。
2種類の性質の川/「岸田川」と「味原川」
川の性質には2通りある。農業用水や水運を担う大川と、人々の生活に密着した小 川。豊岡の川に例えるなら、岸田川(大川)は円山川、味原川(小川)は戸牧川・六 方川というイメージ。味原川は、大川である岸田川へ流れ込む途中、人々の暮らしを 通り抜ける。人はそこで茶碗を洗い、すいかを冷やし、川遊びをしてきた。同じく、 田井川、久斗川、田君川なども、浜坂においては、人々の暮らしに密着している(し ていた)小さな川。逆に、大川と呼ばれる岸田川は、扇ノ山を源流に、多くの支流を 取り込みながら温泉町・浜坂町を通過し、日本海へ注ぐ大河。米を育てるための用水 路であり、水運、洪水被害を起こす悩ましい川だ。
味原川(あじわらがわ)の位置と地形
加藤文太郎記念図書館の2Fの窓から周囲を望むと、浜坂のまちが扇状地であるのがわ かる。浜坂の地名の由縁でもあるのだろう。図書館と以命亭の間を流れる味原川は、 連なる石垣に沿って静かに水を湛える。水量は決して多くない。幅2メートルにも満 たない小さな川だ。家と川との間には小さな橋がわたされ、川へはすぐにおりられ る。川いとなども姿を残す。

この辺りの家々の石垣は、ちょうど扇状地盤上にのっている。その脇を味原川が流れ る。地中を流れてきた山の伏流水は、ここで姿を現す。この辺りに井戸が多かったの はそのためか。昔から残る井戸は、いまは一箇所を残すのみだ。時代とともに、扇状 地には家が建ち並び、傾斜部分を平坦にするため、石垣が造られた。川港から味原川 を川上へたどると、古い時代の石組み(野面積み)から、切り石を重ねた石組み、五 角形に切られた亀甲組みなどが見られる。

昔はもっと水量があったという味原川だが、1990年(平成2年)9月台風19号被災後の 河川改修・放水路(平成14年完成)により、水流・水量が変化した。流量を失った川の 汚染は進み、かつて白川(しらかわ)と呼ばれた白砂の美しい川は消えた。これが、 清流会立ち上げの契機となった。
浜坂の地形と水脈
岸田川、味原川ともに、昔は別の場所を流れていた。かつての海岸線は、今よりもず いぶん内側(山側)にあったという。以前は砂浜だったという場所のうち、砂地で発 展してきたのが畑、岸田川寄りの泥地で発展してきたのが水田。扇状地の脇を通って 岸田川へ注ぐ味原川は、ちょうど石積みの高台と水田との境界線を成しているように 見える。

浜坂には水と関係する「島」があったという伝説も残る。その島には「柱松」という 松の木が生えており、「あわびの霊水」が湧く神社も近くに存在したという。柱松は 現在も以命亭すぐ裏手に残っているというから、この辺りまで海水がきていたと推測 できる。現住所にも柱松という地名が存在する。
浜坂の歴史的背景と土地柄
但馬の最西端に位置し、諸大名や代官所の支配もままならなかった浜坂地域。文化圏 や生活圏は鳥取県の影響を色濃く受けている。因幡の祭である麒麟獅子舞も浜坂に継 承されている。浜坂が但馬の枠組みへ編入を果たすのは、ずいぶん後になってからの ことで、他の但馬地域とは方言も、川の水系も一線を画する。東は餘部鉄橋の投函 峠、南は春木峠、西に蒲生峠と長坂峠。三方を山に囲まれ、さらに北に広がるのは日 本海。この閉鎖的な地域性が、結束力の強さと誇り高い浜坂人気質を形成したのだろ う。かつて豊岡町に次ぐ大きな町だったという自負もある。合併話がもつれたのも想 像に難くない。

天領、京極領、領地が入り組んでいた頃、清富村(きよどめむら)の辺りには陣屋があ った。岸田川はこの陣屋の外堀の役割を得て、デルタ地帯は水田に替えられた。それ により、米の収量増加を狙ったのではないかという。しかし、清富は田井川・岸田川 ・久斗川などの川尻に位置する村で、大雨の度に甚大な洪水被害を被っていた。川替 えは村人の永年の悲願だったが、田中与七郎という人の多大な尽力が功を奏し、幕末 には治水事業が行われた。

その後、1934年(昭和9年)9月27日の室戸台風では、浜坂中がめちゃくちゃになり、 山陰線までも流された。川替え反対運動の最中、この台風が甚大な被害をもたらした ため、反対派も賛成派も一丸となって政府へ嘆願した。この3年後には早くも着工の 運びに。太平洋戦争の最中にもかかわらず、9〜10万人もの人夫が登用され、着々と 工事が進んだ。工事のピークは昭和13,14,15年頃で終戦時に完成を迎える。多数の女 性がかり出され、彼女らのいい働き口となったという。
味原川清流会について
2002年(平成14年)発足。会員数は60名。毎月味原川の清掃作業を行う他、「あじはら 川通信」などを作り住民へ配布。川への関心を促している。毎月の川の清掃作業への 参加者は15名ほど。清流会3年目(例会当時)。ようやく川がきれいに保たれるように なってきた。

あじはら小径が毎日の通勤路という岡部さんは、この小径を歩きながら、川にゴミは ないかと日々目を光らせる。図書館での話のあと、岸田川放流路まで私たちを引率 し、川や石垣の説明をしている間にも、ゴミを見つけては足早に川へ下り、憎々しげ にゴミを拾い上げていた。「5,6千人のうち、川を汚すのは10人くらい」という岡部 さん。その10人がいなくなるまで、このイタチごっこは続くのだろう。

*味原川清流会は、2006年1月兵庫県の「第7回人間サイズのまちづくり賞・まちづく り活動部門」を受賞した。
=例会後、会員の感想より=
  • 生活の中に、暮らしの中にある水。今どう取り組んでいるのか、今昔の川の使い方 を考えさせられた。ゴミを捨てることも昔は生活の一部。今はどんな川の形が理想な のか。それが宿題だと思う。昔に戻る訳ではないから、これから川とどうやってつき うべきか考えさせられる、面白いテーマだった。
  • 岸田川の方が印象的だった。以命亭、先人記念館も。河川の改修の功罪、先人がど んなふうに活動したのかを丹念に調べている岡部さん。そんな方がいらっしゃること はいいなぁ。自分たちの今の活動に活かしてるのもいい。
  • 味原川は「なくなっても生活には問題ない川」なのかもしれない。でも先人の残し たものを伝え、見失ってはいけないよ、という啓示かもしれない。自分たちの存在 は、過去があってこそ。過去を未来に残すのは自分たちの務め。岸がきれいだった。 岸にもいろんなのがある。石組みのこと、以前の但馬学で学んだこと、そして新しく 聞いたこと、亀甲積みって積み方は今までの但馬学とつながっている。
  • もっと町ぐるみで活動をされているのかと思った。岡部さんが孤軍奮闘されている 感じ。でもこれからの活動に興味がある。この地域全体を、先人の知恵と自然の川の 力と今の生活を組み合わせて、何かできるんじゃないか。そんな気がした。
  • この地域でも水と親しんでいないっていうのが実感。もっともっと川と関わる人を たくさん作ると川はきれいになる。昔はみんな、川で顔を洗って、泳いでいた。昔の 人は川に絶対ゴミを捨てなかった。川で用を足すと家が流れる、と教えられた。川と 親しんでるから、ゴミを捨てるなんてことは考えなかった。きれいな川だったらゴミ なんか捨てない。
  • 竹野川は三原からの川と床瀬からの川が合流している。ミヤゴセというゴミ捨て場 があって、崖から下へゴミを捨てる。今はダメだけど、でも捨てる人もいる。大川は ゴミを捨てるところ。食べ物の芽が出て、処分に困るものなどを川に捨てていた。
  • 川と密着した生活をしてきたことがなかったから、なんだか新鮮だった。一番遠い 但馬の1つ浜坂がちょっと身近になった。
  • 昔とはゴミの質も違う。川の上流と下流では、川にゴミを流すことに関しての感覚 が違うのではないか。ゴミは田んぼの肥やし。ものを流すときには大川へ。歴史と山 の地形、浜坂歴史探訪。立体的な浜坂を知ることができた。
【補足】
川替えについては、「川替えと村絵図展 -清富・田中家文書の世界-」、味原川と人 々の生活については、冊子「浜坂味原川物語20話 -水と人々-」(岡部良一)が詳し い。岡部氏の冊子は以命亭にて販売。味原川ホームページは、 http://www.geocities.jp/aki88baka/index.html