2005年4月例会
開催月日 4月23日(土)

開催市町

豊岡市
テーマ 「コウノトリの水辺〜円山川」
講師 池田 啓氏(兵庫県立コウノトリの郷公園研究部長)
場所 コウノトリの郷公園
参加者 上田・峠・中嶋・能登・木村・岩本あずさ・島垣・守山・細見・高石・太田・西躰・戸田・衣川 (会員外)中田・伊藤・小川
担当 高石・上田・衣川・中尾・岩本和・水田・岩本あ

水辺の鳥、コウノトリ
コウノトリ コウノトリ
コウノトリは、水辺のそばにいて餌を獲る鳥である。嘴を開き気味にしながら、川底を探り、ドジョウなどを獲って食べる。死んだ魚なども食べ、大きな体を維持している。

コウノトリが実際に住んでいるのは、ハバロフスク周辺のウスリー川流域の大湿地帯。ここで繁殖し、越冬するために中国に渡る。朝鮮半島と日本列島は、緯度的に繁殖することが可能なので、繁殖地と越冬地を行き来する途中で、いい場所があれば定着し、繁殖するものもあった。円山川が作った豊岡盆地は、ウスリー川流域と同じような大湿地帯で、餌も豊富。北に向けて開いていることからも、コウノトリが定着するにはうってつけだった。

とはいえ、ロシアと中国を往復するのが本来の生活で、たまたま居ついたのが豊岡のコウノトリ。ときどき飛んできては定着して、巣をかけてしばらくいる。それがまた飛んでいっていなくなったりしていた。このように、かつても安定的にいたわけでなかった。一番たくさんいた大正から昭和にかけてのころで100羽ぐらいだったと推測される。

第二次大戦が始まると、松根油を取ったり木製飛行機の用材として使用するため、松が乱伐され、巣がかけられなくなった。さらに、農薬の使用や餌になる生き物の減少もあってコウノトリの数がどんどん減っていく。昭和30年、山階鳥類研究所の設立者が、当時の兵庫県の坂本知事に保護を依頼。その後、但馬にコウノトリ保存会ができたり、さまざまな保護をするが、数は減り続けた。昭和35年頃から地元でもさまざまな活動が行われる。コウノトリの卵を取ってきて人工孵化を試みたり、1965年から人工飼育を始めるもうまくいかず、昭和61年ぐらいにハバロフスクから幼鳥をもらってきてから、ようやく数が増え始めた。現在(例会当時)は、115羽を飼育している。

試験放鳥、野生復帰への課題 ─ 「未来に戻る」
2005年に試験放鳥するため、2003年からトレーニングを開始するなど野生復帰の準備をしてきた。コウノトリのような希少な動物を保護するうえで大切なのは、まずは野性の中で保護すること。それができなかったときには、捕獲して飼育し、手厚く数を増やす。そして、数が増えてきたら、最終的には野生に放していく。

しかし、野生でいったん絶滅したということは、自然環境の中では生活できなかったということなので、その状態を何とかすることが今の私たちの大きな課題である。つまり、水のネットワークを作り直して魚が上がってこれるようにする、農薬を使わない、松の木の代わりになる人工物を建てるなど、いろんなことをやっていく必要がある。

こういうと、昭和30年、40年の私たちが子どもの頃の環境に戻るのかと思われがちだが、私たちは「復活」ではなく「創造的な再生」という言い方をしている。30年代に戻すということは、その頃の生活に戻らないとできないが、それはナンセンス。前を向いて行った結果、そういう環境が作れればいい。過去に戻るのではなく、「未来に戻る」。これがコウノトリの野生復帰で一番重要なポイントである。

郷公園の機能
ここは大学の研究施設でもあり、さまざまな研究をしている。

まずは、コウノトリを育てて保存するための繁殖技術の確立。遺伝・家系を分析し、近親交配が進まないようにペアを作っていったり、他所と交換したりもしている。現在は、放鳥する鳥の飛行訓練など、放鳥のための準備や研究も行っている。

住民からの聞き書きなど、コウノトリが帰っていく地域社会の、社会学、経済学、民俗学的な研究も行っている。また、パークボランティアを養成し、養成したパークボランティアを組織して、子供向けの体験講座も開いている。

地理情報システム(GIS)を活用し、パソコンの中の地図にいろんな情報を重ねていくことでも面白いことがわかってくる。例えば、野生のコウノトリの出没データ。パークボランティアから集まってくる膨大なデータを地図に落とし、何故そこにコウノトリが下りるのか調べてみると、季節ごとにどこで何を食べているかがわかってくる。そこから、コウノトリが食べられる餌がどのくらいあるか、それはコウノトリ何羽分に相当するかを計算していく。今の計算では、餌が豊富な時期でおそらく数十羽のコウノトリが、餌が少ない冬場でも十羽以上は豊岡盆地に棲むことができるだろう。

講師の池田先生と公園内を散策 大きな飼育ケージが並ぶ
地域を挙げての取り組み ─ 「いい味でまっせ」コウノトリ
これらの研究結果は、コウノトリ野生復帰推進連絡協議会に提言する。ここには、行政、学識者だけでなく、農業者、商工会議所、学校関係、漁協など、みんなで知恵を出し合って実行に移している。

自然再生への取り組みのほか、農産物の安心ブランド化(「コウノトリの舞」ブランド)、生産者と消費者をつなげる取り組み、電柱の地下埋設、JRのオレンジカード、商工会議所のコウノトリ商品券など、さまざまなことが試みられている。

これらの発想は、コウノトリがいることで出てきたもの。つまり、コウノトリはダシでもある。コウノトリの野生復帰は、コウノトリだけのためにやるとは私たちは思っていない。ここの人たちが元気になり、その結果、コウノトリも野生に戻れればそれが一番いい。コウノトリはいい味でまっせ。うまくしゃぶろう。

荒ぶる自然、円山川 ─ 「円山川流域おたまモデル」
豊岡盆地は大湿地帯で、水が入って当然のところ。ここに水鳥であるコウノトリを復活させようということは、水が入ることも一緒に引き受けるということである。私自身も床上1mの被害に遭うまでこのことが見えていなかった。これとどう折り合いをつけるか。

今回の洪水で、山際に石垣を組んで建ててある古い家は、水が入っても家は大丈夫だった。1947年の地図を見ると、六方川が蛇行していたので、家がほとんどない。六方川がまっすぐになると、梶原あたりも家が建ってくる。川が直線化されたり堤防が整備されたりしたことで、本来住んではいけない所まで住めるようになった。でも実は、住めると思ったのは錯覚で、想定を上回ることがあれば、やはり住めないということがわかった。

洪水でもう1つ考えなくてはいけないのは、円山川の集水域。そのほとんどが山林である。だから、山林を含めて川を治めることを考えていかないといけない。円山川は流域がすごく広くて出口の狭いのが特徴。しかも、河口から17kmぐらいまでがほとんど海抜0mと、下流部はほとんど高度差がない。

そこで私が考えたのは、「円山川流域おたまモデル」。円山川は、急峻な上流域、中流域から一気に流れてきて、六方の田んぼでおたまのようになっている。しかもここは、40mほどの深さまで軟泥地。堤防を高くしても、下が軟泥なので、沈んでいく。堤防で止めるには難しいのである。しかし、一方で円山川は、栄養豊かな土砂を運んで土地を富ませ、海運ももたらした。有史以来ここに人が住み続けてきたのは意味のあることなのである。

ではどうしたらいいかというと、おたまに水をゆっくり流すしかない。今、源流部から豊岡盆地まで来る間の時間がほぼ2時間早くなっているが、緑のダムを作ったり、中山間地で使われなくなった棚田に水をうまく溜めていくようにすると、ゆっくりと流れるようになってくる。それでも多い場合は、水を引き受ける、リスクをある程度引き受けるという気持ちも要るかもしれない。田んぼに水を入れさせてもらったり、移転が必要な人にはみんなでお金を出し合って高台に移転してもらうのもいいかもしれない。縦割りの霞ヶ関でやってもだめで、この現場にいる、但馬の人が但馬の安心安全を自分たちでコントロールしないといけない。

そして、私たちの生活の安全、安心、癒しを考えると、田んぼの機能は、もっと評価されてもよいのではないか。

円山川流域おたまモデル 「自然との共生」とは、リスクを少しひきうける(=かわす)こと
新しいライフスタイルの創造、発信へ
洪水でもう1つ印象的だったのは、大量のゴミ。水害は、私たちがあれだけのものに囲まれて生活しているということに気付かせてくれた。日本を含めた先進諸国は、石油という過去あったエネルギーの貯金を食いつぶして生活しているが、これは私たち自身の子ども、孫、ひ孫に対して不平等を強いる行為でもある。今、私たちが浪費すればするほど、孫、ひ孫に回せるエネルギーが少なくなっていく。それはまずいのではないか。

夢テーブル委員会が開いたフォーラムでも出てきたのは、何か新しいライフスタイルを作らなきゃいけないという思いである。コウノトリの野生復帰という先進的なことをやっているこの地は、同時に、さまざまな災害、荒ぶる自然と付き合ってきた。昭和の場合は、山から下りてみんな東京に行っちゃったが、平成の民族大移動は、東京からまず豊岡に戻ってきてほしい。豊岡に戻ってきたら、水が出るかわからないところではなく、少し高台に戻る。…そんなアイデアがフォーラムで出ていた。災害を経験してきた但馬だからこそ、こんな話がきちんとできるし、発信もできる。

将来への展望
10〜20年というスパンで考えると、複数(4つか5つ)のペアが定着し、その子どもはロシアに戻ったりして、2500羽の母集団に加わっていくようになってほしい。 コウノトリの郷公園の役割は、野生でここにいる集団に何か起こったり、家系に偏りが生じそうになったら、別の系統を放したり、数が減れば補うというように、ストックを安全に維持し続けること。もう1つは、知の集積の場として、地域づくりの核になろうとも思っている。これからの時代、研究機関を持っている田舎町はすごく幸せ。いろんな人がここに来ていろんな研究をしてくれる、そういう場にしたい。オックスフォードやケンブリッジのようなまちづくりをしないかなぁと思っている。そこから安心安全を発信する。それが但馬の使命だと思っている。



池田さんといえば、言わずと知れたコウノトリ放鳥の立役者の一人。生物の専門家ではあるが、地元のPRから商品開発まで、「ここが元気になるため」の知恵を日夜絞っておられたりするのだ。