2006年8月例会
開催月日 8月26日(土)

開催市町

新温泉町
テーマ 「船を使った暮らしと仕事〜新温泉町 三尾地区〜」
講師 中村豊治さん(三尾地区・渡船業)
場所 但馬海岸遊覧船、三尾地区
参加者 島垣、椿野、能登、中嶋、谷岡、原田、中安、衣川、太田、友田、小川、峠、木村、藤原次、岩本、西躰、中尾
担当 中尾、西躰、谷岡(記録)

   三尾は陸の孤島と呼ばれた。昭和25年に三尾隧道が開通するまで町である浜坂とここ三尾との交通は徒歩か船しかなかった。
 三尾は983年より人が住みついたとされる。しかし、永住するというよりはたまに行くところであったようだ。江戸時代(1673年ころ)より人が住みついた。
 三尾には大三尾と小三尾があり、大三尾の人が小三尾に移ってきたという。

     
海から望む三尾の集落 講師の中村さん
 小学校の時分は山越に越して浜坂に出た。収入がなく海で取ってきたもので生活していた。田んぼは作っていない。冬には何の仕事もなく博打をしていた。畑をカタに博打をして春になって嫁が畑に行くとよその土地になっていたとのエピソードもある。
物々交換をしていて、ザルに魚を荷って山を三つ越して浜坂に出た。朝3時に出発していたが、当時はオオカミが出た。オオカミは賢く広いところまで着いてきて、「送りオオカミ」と言われていた。
 ここに住みついていた人は85戸、人口は200人。たいがいの家には6〜7人いた。小学校の生徒は80人くらいいた。(今は30人くらい)現在の大三尾79戸、小三尾17戸。三尾という名は、屋根が三つ出ていたということで三尾という。後鳥羽上皇が流されたとき、この地で助けられミオという名を名づけたとの伝承もある。
 (山の中腹部)の農業は、焼畑であるが、現在はやっていない。昭和50年くらいまで作っており、サツマイモ、バレイショ、ジャガイモを作っていた。下では田んぼを作っていた。
     
この山道を徒歩で越えていた 僅かな農地を耕す
間塩は間城とも言い、三尾と赤崎の間にある。税金を佐津の代官まで持って行く際の通り道にあたる。山には山賊が出るのだが、御崎に行く道の下に洞穴があり、ここに「赤軍派」がいた。それで魔城と言ったが、間城が本当だ。地図ができた頃には間塩となっていた。間塩には、歩いても来れるが船でも来れる。船の方が多かった。田んぼは3〜4町あり、だんだん田であった。牛を飼う人は何軒かしかなく、(僕は)牛を見たことはなかった。全部人間が作っていた。苗は自分の家で全部作る。
分家に生まれた人は田んぼがない。よそから買ってこないといけない。海から魚を捕ってきて米や魚を交換した。
     
間塩の田んぼの跡 村人も手伝って作った小学校
当時は学校の授業が終わったら田んぼに行った。授業より農業の方が忙しかった。宿題が出されても宿題する時間がなかった。
(僕が)小学校1年生のとき、雪が降ると朝3時におきる。石ばっかりの浜に魚が浮いている。多い時にはカリハギ、アコウ等が、200匹くらいいただろうか。
船をワイヤであげるようにしていたが、どの地区でも少年団が船が入ってきたら子供たちで船をあげた。
今では僕の一隻しかないが、昔は30隻あった。
駄賃でさばを3本くらいもらった。校長先生が立会い、少年からこの魚をもらって、校長は少年団の活動資金にしたのであった。

質問に答えて

小学校は鉄筋だがどのように作ったのか

 昭和40年の鉄筋コンクリートであり、浜坂の建設会社が作った。大きな船が3隻来て浜坂から材料を積んでやってきた。船から陸揚げし、高いところにミキサーを置いて流した。ムラの人が手伝って学校を作った。車がなく、船でやった方が楽であったため、この方法を取った。今みたいな港もなくテトラもない。岩場のような浜であった。

トンネルができて変化があったか

 85戸から75戸になった。漁師ができない人が浜坂に住居を移した(5軒)。浜坂町長の家もその一つであり、町会議員で浜坂に出たものもある。また、大阪や神戸に出たものもあった。トンネルができたため移っていった。  当時は、浜坂に働きに出ても帰ってくるのに困ったものであった。中学校の時には隧道ができていて歩いて行っていた。この隧道は村中が日役に出た。日役はまる一日であり、出れないところはお金を出していた。
     
三尾の隧道 隧道の内部

いつ電気や電話がついたのか

 電気・電話は大正についた。  三尾から電灯会社の幹部についた人がいた。電気の直し方を聞きに行った。その後は電気の修理を行うことができるようになり、僕もヒューズを入れ替えたりした。