| 開催月日 | 11月24日(土) | 開催市町 |
美方町 |
| テーマ | 「但馬牛と但馬杜氏の里」 ― 辺境 ・ 風雪 ・ 80年 ― | ||
| 講 師 | 小椋 勝元 (84歳)美方町間谷 | ||
| 場 所 | ミカタヒルズ 忠岡(美方町) | ||
■ 熱田の最後の住人、小椋勝元(84歳)の80年の人生論 熱田(美方町で廃村となった村) 明治40年9月20日に旧小代村、今の美方町の中心からおよそ10km離れた山奥にある、熱田の里に、小椋清八の長男として生まれる。 美方町は兵庫県の一番山奥の町ということでなかなか有名ですが、その美方町の中でも熱田は一番の山奥で、氷ノ山の山ふところに位置する。 10才の年の冬に弟妹四人を残して父清八氏が33歳の若さで冬の出稼ぎ先の播州で頓死する。小学校とは名のみ、村の田渕久太郎という人の家にあった「熱田家庭教育所」で約6年、6年といっても一年のうち4月から11月までで、読み書きそろばんを教わったが、正味そこの教育所に通ったのは、ほんのわずかだった。教科書もあり、村から教科書を出してもらっていた。 卒業を待ちかねて、手足も凍る、寒い播州の高野豆腐屋に出稼ぎに行った。14才くらいだった。寒さで真っ赤に腫れて、ズキズキ疼く手足をさすりながら、泣いた思い出は今だに忘れられない。 70歳まで船坂(有馬)播州(中三原)小倉(河内長野)など色々と杜氏として出稼ぎに出ていた。春から秋までの間は養蚕や炭焼きが仕事で、70〜80日間炭焼き小屋に泊まりこみ一日に18時間くらい働き、3〜4時間休みの繰り返しだった。 熱田の村から小代までは名ばかりの県道で、犬道であった。これの改修を町や浜坂土木に陳情したが補助金は少なく 「牛の角にはえがたかった」程であった。村の人総出で苦労して独自で建設していった。 学校の建設を陳情した時は、ちょうど射添と合併した頃で川合の区長の谷洋一(現国会議員)が大変協力的に意見された思い出は忘れられない。材料は無償で村民が協力し、費用も村が負担し建設した。しかし、電気がなく、関西電力にお願いしたが費用は村が負担すると言っても、管理が大変であると設置されなかった。そこで、自家発電することとなる。村に2ヶ所設置・550万円の費用で(補助金の他を一戸あたり20万円の負担とし 村の杉山を売却しそれにあてて)行われた。 その後離村する人もあり、学校が廃校となる。10人の生徒に対して2人の先生だったのが、2人の生徒となってしまった。 昭和35年 牛乳をはじめ新聞ダメ、交通ナシ、結局生活ができなくなった。「何百年住んでいた所をはなれたくない」ことになった。 町は集団住宅を長屋で建設し、風呂、便所、炊事場は共同とした。 昭和44年 結局、小椋さんは最後まで熱田の住人をとおした。村を離れる時、何度も何度も振り返り涙が出るのをこらえられなかった。 現在は春から秋まで熱田で牛飼いを通勤農業をされています。 [小椋姓はもともと木地師で熱田には木地師の墓が6基現存している] |