| 開催月日 | 8月25日(土) | 開催市町 |
豊岡市 |
| テーマ | 古代但馬との出会い 縄文のくらし・弥生のくらし | ||
| 講 師 | 瀬戸谷晧(但馬考古学研究会) | ||
| 場 所 | 豊岡市・郷土資料館 | ||
■ 考古学の可能性と限界 但馬周辺の古墳には、遺体の頭の部分に枕をする例が見られますが、それが何を意味するかは考古学で明らかにできても、きょうのテーマの古代人の心、思いは分からないという限界があります。しかし、但馬の考古学も発掘や調査が進み、「但馬も分かってきた」という感じがします。これまで全国規模の本に但馬のことは出ていませんでしたが、3〜4ページを割いて記述されるようになりました。八鹿の銘文太刀もあります。学問が浸透し、全国的なものに掲載されるようになりました。 ■ 玉作りのこと 碧玉の原石、擦り切る技法をもつ原石が豊岡市香住の遺跡で出てきました。玉を作る技術は、米を作る技術とともに大陸から渡ってきたのではないかと言わており、私も興味をもって見ております。但馬の古代人たちが、「玉になる石が出る」と玉の神様を祭る思いがうかがえる、非常に貴重な資料と言えます。弥生時代まで遡って、全国的にも古い遺跡あるいは産出地になる可能性があります。 ■ 銅鐸のこと 但馬では気比と日高町久田谷から銅鐸が出ていますが、どちらも大きな問題をはらんでいます。そのうちの1個は茨木市で作られ、気比まで運ばれたことが確実になっています。別の場所で銅鐸4個を、中世の人が再埋納したという説と、弥生時代の人が埋めたという二つの説があります。久田谷(日高町)遺跡から出てきたバラバラの銅鐸は、但馬の考古学の分からないものの一つで、これだけ大量の破片が出たケースはありません。謎は深まるばかりです。 ■ 鏡のこと 考古学を研究する者が、一度は発掘してみたいと思うのが銅の鏡で、但馬では40枚以上出ています。豊岡市の森尾古墳から出たも「三角縁神獣鏡」と神獣鏡で、神獣鏡の□の部分は割れてないのですが、『正』という文字が入るだろうという鏡です。中国で作られて日本に輸入されたという説があり、京都府山城町の大塚古墳からも出ています。正始元年というのは、中国魏の時代の年号で西暦 240年で、中国の支配下に入った卑弥呼に、「汝の好みの銅の鏡百枚を与える」という中国側の記録がありますから、この頃の中国との交流の中で、たくさんの鏡が日本の支配者にわたり、全国にばらまかれたという考えがあるのですが、中国では三角縁神獣鏡が出ていないので、やゝ問題のある説です ■ 但馬のなかの渡来色 中国で作られた遺物が、但馬の古墳からも発見されています。出石の田多地引谷墳墓群では石の棺から中国の五銖銭が出ました。前漢から後漢にかけ、 200年間近くにわたって作られていたことが分かる資料で、中国には記録が残っています。どんな経過・経路で有力者のところにきたか考える必要はあると思います。朝鮮半島を通じ、銅器や銅製品を作る材料が入っていますが、何らかの経緯で出石にきたと考えたらよいと思います。 もう一つが「棺を用いない石室」で、豊岡の大師山古墳群では10基ほど古墳を掘ったうち9基までが竪横の構造でした。この地域は、但馬国の気多郡の賀夜(カヤ)と言われていた地域です。一つの事実として指摘してしおきたいと思います。近くに今も加陽(かや)と書くところがあります。昔の名残りです。中国大陸との関係の中で、緊張関係にあった新羅や百済に囲まれた小国家連合の人たちが、一つの逃げ道として但馬にやってきて住みついた。そんな伝承をもつ人たちが、賀夜の地に住んでいたことを考えるのは、許されるのではないでしょうか。 |