| 開催月日 | 2月22(土) | 開催市町 |
村岡町 |
| テーマ | 縞帳のあるふる里 糸と機の文化 | ||
| 講 師 | 山根登代子(風通絣織り実践家) 中村典男(村岡町教育委員会 ) | ||
| 場 所 | 茜工房 村岡町黒田 | ||
| 担 当 | 太田 藤原 | ||
■ 母から娘へ伝えた「織り」と「染め」 日常の着物をすべて手づくりしていた明治期から戦前の農山村では、それぞれの家に手機を据えて夜なべの一時や農閑期に、女衆は様々な布を織っていた。手馴れた人なら風通織りで粋な文様を表したり、組織を上手に使って織絣を作ったりもした。二筋格子や子持格子、碁盤縞や弁慶縞、そして金通や三崩など素朴で美しい織り柄が作られ、機織りの技術とともに家々で母から娘へ伝えられてきた。その布切れを集め一冊に納めた「縞帳」は、女たちが暮らしを静かに支えてきた証であり、誇りであった。 当時の織物は、藍染めを主にした縞の平織の絹物や木綿が大半を占めていた。化学染料が出まわるようになる大正期までは、蚕からとった生糸を藍、くるみ、とち、げんのしょうこ、きはだ、かしわ、うめ、そよご、よもぎ等、身近な自然の染料で染めていた。 |
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■よみがえった風通絣織 村岡町黒田に住む山根登代子さん(当時76歳)は、今から約10年前に風通絣織を復活させた。二重織りという複雑な組織からなり、八枚綜絖を使う技法が平織の紬に比較して難しいと敬遠される風通絣織だが、明治期にはそうとう流行していたようだ。風通絣織がこの地に普及したのは明治のある時期、現在のハチ北高原近くの大笹村にある「向畑旅館」に織物を指導する先生が投宿して、村の婦女子らに風通絣織を教えてからだと言い伝えられている。山根さんの母親も娘時代に先生のもとへ通って教わったという。 大正2年生まれの山根さん自身も小学校に通う頃になると、母親の綜絖通しをよく手伝った。二十歳頃から一人で機織りができるようになり、結婚してからも嫁ぎ先の姑さんと一緒に織り続けていたが、孫ができた頃から子守りが忙しくなり、しだいに機から遠ざかっていった。 |
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年をとり、ひまを見つけて機織りを再開しようと思い立ったのが今から約13年前。「この美しい風土の織物を何とか次の世代に伝えたい」との強い思いから一念発起、蔵から久しぶりに「縞帳」を出してきて、娘時代に母親から教わった風通絣織を少しずつ思い出しながら、終日、機に向かうようになった。 今では近所の女性が、機織りのこころ、風通絣織の技術をしっかりと受け継ぐまでになり、その女性グループは「茜工房」として地道に活動を続けている。 |
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