1992年5月例会

開催月日 5月25日(土)

開催市町

養父町
テーマ 寺子屋物語─但馬の学問史
講 師 宿南 保氏(養父町史編纂室長)
場 所 養父町・民俗資料館
担 当 丸山

■ 幕末期、但馬の教育機関
幕末期、但馬の教育機関には、藩校と私塾心学講舎(敬忠舎、立誠舎、含章舎、養浩舎など)がありました。江戸時代の藩校で勉強した人たちからは、“求めて学ぶ姿”“是非自分に力をつけたい”という熱意が伝わってくる。豊岡藩では士族階級の中から“あれだけ大きな仕事がよく短期間にできたものだ”と思われるぐらい、偉い人たちが下士階級から出ている。それまでに私塾ができる。例えば青谿書院や出石にも何ヵ所かの塾ができる。塾は漢学、すなわち儒学を教えます。武士の子弟も地主の子弟も行きます。私塾は庶民と武士との教育機関でしたが、庶民の教育機関として天保頃まで盛んだったのが心学講舍です。『心学』というのは石田梅厳の始めた講義で、但馬は盛んでした。心学を勉強した方が講義をするが、同時に、各々が勉強してきていて、自分たちで意見を出しあって考えを深めていく。教材は儒学、佛教、神道等の理論を結び合わせたものです。

■ 寺子屋
寺子屋の開設は、幕末期の1845年(天保年間)以降多い。幕末期は教育爆発期という気がする。青谿書院もその波に乗っているわけです。草庵先生の塾は儒学を教えました。儒学は武士の学問です。武士たちが百姓出身の人に講義を聞こうとするだろうか。豊岡藩のことを調べていたら、明治になると儒学を勉強した人が役所のいい役についた。中央政府は特に厳しかった。外国の文物を取り入れなければならない。警戒しなければならないのはキリスト教、民主主義。外国の思想が入ってきてそれに侵されては困る。それに対抗できるのは儒学の勉強がしっかりできている者。彼らは批判する力をもっているから、そういう者に外国の勉強をさせようという気分が強かった。役所にも外国の使節に行く者も、儒学を勉強していることが基礎条件のようにして選ばれたようです。草庵先生に学んだということは基礎条件をクリアしたように受け取られているふしがある。北垣国道さん、原六郎さんなど非常に草庵先生を大事にされています。

■ 寺小屋はどの地域に多かったか
円山川流域は生活が楽で寺子屋も多いと思うんですが少ない。地域別にみると美含郡、但馬海岸部、二方( 浜坂町、温泉町 )七美郡は養父、朝来両郡よりはるかに教育熱心だ。浜坂、美方というのは山間部で、地域として隔離されているところがある。村ごとに寺子屋があって数が多くなっているのではないかと思います。

播州は但馬に比べれば裕福な地域です。裕福な地域の人は、他所に出かけて行かなくてもよい。自分の家の仕事を継いでくれたらよい。その点、仕事の少ないところの人たちは、外に出て自分の生活を築くために勉強しておくことが必要だ。但馬の場合は後の地域に入る。ここを出ていって仕事をしていくための資格を得る。但馬には風土的に人材養成の地域というところがあるんじゃないか。寺子屋の地域分布を見ても、但馬の中でもそう言える。日本の国全体から見ても但馬は教育熱心です。また熱心にならざるを得ない所です。

■ 明治維新を支えた儒学
日本では儒学を一生懸命勉強していた。これが、西洋流の合理的な考え方を培った。経済学にしても政治学にしても論理でしょうが。論理で組み立てていくという考え方に合っていたんだそうです。だから、ヨーロッパの文化が明治維新に入ってきた時には、スーッと入ったようです。日本の明治維新があんなにスムーズに、世界の人たちがびっくりするほど、西洋の文物をうまくとり入れたと言われる。日本人は器用だということもあります、幕末期に儒学が非常に活発だった。これが明治維新を思想的に成功させる下地をつくっていたと言われております。