1993年12月例会

開催月日 12月11日(土)

開催市町

養父町
テーマ 鯉の里 円山川と養父市場 
講 師 吉井六郎
場 所 コミセン養父 養父町養父市場
参加者 和田・中田・西村礼・西村美・住吉・島垣・湊崎・太田・浜野
担 当 浜野

吉井さんは、養父町在住。養鯉業のかたわら、養父市場の水路に鯉を放流した景観づくりなど、
地域活性化にも活躍。

■ 鯉料理の実演と試食


■ 円山川に育まれた養父市場の鯉について
養父町は、昭和31から34年にかけて3度の町村合併によって現在の町域が作られた。幕藩体制下では養父(養父市場を中心に右岸沿いの集落)、広谷(現在の町中心部)が出石領、建屋は生野代官所の属した。
養父市場には本陣が置かれ、出石・粟鹿神社と並ぶ歴史と社格を誇る養父神社がある。養父町が錦鯉の町をして知られる下地は、最初、養父市場村に食用鯉養殖を導入したのは大橋助左衛門といわれている。天保年間のことであった。この頃、すでに餌として、製糸の副産物、蚕のさなぎが用いられていた。

明治43年に養父市場に養盛館製糸所が誕生して、多量の蛹が同工場からは排出されるようになり、餌はいっそう豊富になった。その結果多くの農家が養鯉に参加するようになり、大正3年ごろには養父市場村養鯉組合が設立され。組合員は5、60人であ った。組合は稚魚の共同購入、成魚の共同出荷などを行なっていた。そのころの養鯉は稲が植わっている田でおこなわれるのが一般的でした。稲田(とうでん)養鯉と呼ばれていたこの方法には、第一過程と第二過程とに分かれる。

養父市場は稚魚育成においても他地区を圧倒していた。大塚や養父市場で育成された稚魚は旧養父市場町内の希望農家へ、組合を通じて販売され、購入農家はこれを田植えが終わったばかりの水田に放流した。養鯉水田は養父市場では集落と鉄道との間に広がる場所に多かった。

水田の中干しのとき、鯉は水田から引き上げ、各自が用意の池へ移す。池は料理屋の生け簀も含め、養父市場には100余りあったという。以後この池で冬期間も含めて飼養され、養鯉組合を通じて随時出荷され。池に移されたときは、だいたい10〜15センチに成長していた鯉は、あまり大きくならない時期を見計らって、順次出荷された。

養父市場近辺は、養鯉をするのには、好条件に恵まれていた。一つは水質、もう一つはは餌であった。円山川の水は硬度、温度が養鯉に適しているのは中流域といわれる。なかでも養父市場あたりがもっとも適しているのであった。養父市場では、この水が猿岩あたりで導入され、その水路が町を貫流し、各家の池を満たしている。このような背景のなか、昭和10年のこと、養父駅勤務の吉井六郎さんは、新潟県小千谷市から米子へ向けて送られる鯉の稚魚輸送箱のふたを開けてみて驚き、稚魚の紅白の色あいがなんとも美しくまったく魅せられた。


父の代から養鯉を始めていた吉井さんは、小千谷へ走り、錦鯉の稚魚を導入され、その後10年余りの軍隊生活と抑留生活ののち昭和22年に復員され、そのとき見たのは、養父市場各家庭の池の荒廃だった。

昭和18・19年のころ、食糧不足から鯉は半強制的に供出されたあと、補充されていないから池に鯉の姿はなく、吉井さんは再び錦鯉養殖を思いたって小千谷へ行き、稚魚を購入した。

23年に孵化、28年に大塚に山田を購入して養魚池を造り、事業の基礎を固め。養魚池によって錦鯉を飼養するようになり、10月終わりから11月ごろに池から引き上げ販売する。鑑賞価値の高いもの・品評会出品用・親鯉などは池に残して、2年・3年と飼い続けるが、大半は1年を周期に更新する。

現在、養父町では、錦鯉飼養の振興をはかって、錦鯉振興会を結成している。
会員の中の6軒ほどは養殖池も経営して、改良と育成につとめている。