| 開催月日 | 4月26日(土) | 開催市町 |
村岡町 |
| テーマ | ブナの森の恵み ──小城(こじょう)の衣食住から | ||
| 講 師 | 中山明正さん(小城区長)と奥さん 中山正陽さん(竹野中学校教頭・小城出身) |
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| 場 所 | 小城ブナ林・中山明正さん宅の庭(村岡町小城) | ||
| 担 当 | 友田 藤原h | ||
■ 円山ブナ林散策と山菜のてんぷら 10時に村岡ファームガーデンへ集合し、射添公民館に移動、車を減らして11時ごろ小城に着く。中山明正さんの案内で、海抜600メートルの小城の村の裏から日高町境の稜線にかけて広がるブナ林を散策する。県の天然記念物に指定され、三川山にかけての一帯のブナ林は西日本有数の規模という。一斉に芽吹いていた。林床はキクザキイチゲ・ニリンソウなどの「春の妖精」と呼ばれる草花が咲いていた。雪解けからブナの葉が茂るまでの短い期間に、太陽をいっぱい受けて花を咲かせ、やがて地上部が枯れて跡形もなくなってしまう山草たちのこと。1時間ほど歩いた。 中山さん宅の庭で昼食。各自おにぎりを持参し、ブナの森で採ったコシアブラ・モミジガサ・イタドリと、小城までの道中で採ったウド・タラでてんぷらを揚げる。今年2月例会で焼いた炭と七輪を用意した。 |
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■ 小城の村と集落移転 1日に3尺ぐらい雪が積もることもある。電話線をまたいで通ることもあり、今でも冬は2階から入る。郵便受けが2階にある家もあった。昭和22年に電気が、24年に電話がついた。ここまで車が上がるようになって 25、6年になる。ここから麓の川会まで8キロ、香住に出る山田口まで6キロ下る。 小城の村は若いころ21戸あったが今は11戸、約9キロ離れた麓の和田(村岡町)に全戸が移住する集落移転している。国や県は家を潰してくれと言ったが、和田には生活基盤がなく通勤農業をしており、家は残せることになった。ここに田んぼを4反作っている。森林組合の仕事にも行っている。山でしいたけを栽培している。 盆にはみんな小城に帰って来てにぎやかだ。下(和田)には帰らない。下は文化住宅なので町といっしょだ。みんな小城に泊まる。 ■ けものたち クマ・イノシシ・シカ・サル・タヌキ。ヤマウサギは育てにくいというが育てた。家の前をウサギがよく通ったが、今はいなくなってさみしい。そのかわりキツネが増えている。イノシシは20年ほど前からきだした。 ■ 山菜 ウド・ミズブキ・フキ・アサツキ(ヒル)・ミツバ・ゼンマイ・ワラビ・タラ・イタドリ・ヨモギ・タケノコ・トチ・クリ・ヒラタケ・クリタケなどを食べる。シオデは日本のアスパラガスだ。ここはスズノコを食べない。 ■ 昔の暮らし 昔はローソク代・油代があれば暮らせた。食う物はたくさんあった。現金のいらない生活だった。お金がいるようになって炭焼きが始まった。終戦当時は16,7人が炭を焼いた。麓の山田のほうからも炭焼きに上がってきた。「30キロを2つ背に負って下の道まで運びました」(奥さん)。山に縦道があって、薪や炭焼きにする木を落とした。この村には国有林300町歩、と個人・部落有林250町歩あって、収入源だった。山はブナとナラばかりだったが、25年ほど前から植林が始まった。竹藪は、稲木や家を建てるときの壁下、農業のいろんな用具にして生活に欠かせなかった。どのうちも牛と蚕を飼っていた。冬は酒屋に出稼ぎに行った。 ■ 家 クリ・スギ・ミズメ・トチ・マツ・ケヤキなどを山で伐って、縦道を落とし、建てた。 ■ かりょう(焼き畑) ほうぼうでやったが村の上、ブナ林の下が多かった。梅雨にかりこかして(木や下生えを伐採して)土用に焼いた。最初の年に小豆、2年目・3年目にアワやソバを作った。だんだん作れんようになり、場所を移した。場所のいいところは桑を植えて蚕を飼った。さつまいもや大根や菜っ葉も作った。20年ぐらい前から焼き畑をしなくなった。(焼き畑を養父郡は「かりゅう」と言う) ■ 小城越え 昔は香住の行商がここを通って神鍋へ越え(神鍋で言う「小城越え」)、久斗のグンゼまで魚を運んでいた。行商の人の宿をしていた。金をとらん宿で、薬屋・反物屋も泊まった。江原と香住を結ぶ交通の要所だった。小学校を出たら子どもらが京や大阪に奉公に出たりグンゼに出たりした。泣き別れ峠と言っていた。小城は神鍋との付き合いが深い。うちのおばあさんが神鍋から来ており、おじいさんの兄弟2人が神鍋に出ている。 |
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