| 開催月日 | 11月28日(土) | 開催市町 |
大屋町 |
| テーマ |
但馬の養蚕と3階建て農家 |
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| 講師 | 山内紀代美 浜勝美 | ||
| 場所 | 古屋小倉家及び製糸工場跡 上垣守国養蚕記念館 | ||
| 参加者 | 島垣 住吉 中田 浜野 藤原次 守山 田中 丸山 湊崎 中尾 |
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| 担当 | 島垣 | ||
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■但馬で養蚕業が栄えた理由 但馬経済を支えた養蚕だが、特に大屋で養蚕業が栄えた理由として次の事が考えられる。 1.上垣守国による上質マユの生産 2.小倉19代当主による機械製糸の導入と普及 3.農民のマユ増産のための工夫→3階建て農家 |
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■ 上垣守国による上質マユの生産 豪農息子上垣守国は1770年(18歳)当時日本で最も優れた蚕種の地陸奥から75年には近江から蚕種を取り寄せ、研究改良を重ね良質のマユの生産に成功。後に、弟右衛門を陸奥に行かせ養蚕抜術を習得させ、1802年養蚕秘録(上・中・下)に残されている。 1808年4月 、おろしや騒動で農民のための庄屋として出石藩主に直訴し、同年8月病没す。(56歳) 養蚕秘録は、但馬丹波丹後の養蚕業に、大きな刺激を与えた。蚕の起源からその種類や伝説などが 細かく説明してある。当時の女性や子供にもわかりやすくした図入りが 大きな特徴。国内の養蚕家の手引きとしてばかりではなく、フランス語、 イタリア語などにも翻訳され海外でも利用された日本の「技術輸出第1号」 と呼ぶ人もいる養蚕記念館は、当時の生活様式や養蚕に関する資料を保存し、後世に伝えようと、 守口生誕の地近くに設立されている。現存する唯一の遺品。守国が使用していた「矢立国各地から養蚕に関する資料、かつて日高町にあった県立養蚕試験場の資料などが展示されている。 |
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■ 山内紀代美氏 小倉製糸工場とは何だったのか?そのお話を聞かせていただいた 。小学校時代までこの古屋に住み、現在はすぐしたにある和田に 在住。山内さん曰く、「小倉家の資料をまとめ、廃村となった古屋の歴史を 豊かな自然と共に後世に残したい」 ■ 古屋小倉家 八鹿より約40分大屋川上流に車を走らせると古屋に着く。古屋の奥の杉木立の中に山城のような苔むした石垣がある。これが小倉家本邸と製糸工場跡である。 その昔、古屋は交通の中心地であった。 明延鉱山が明治政府管理となったため、19代当主寛一郎(1859-1945)は欧米との 貿易拡大に貢献し、併せて家運の隆盛を願い、大屋の上質のマユに目を付け、上質の生糸を量産する事業を興す。 1877年(明治10年)機械式盛業製糸工場を創業する。 1881年(明治14年)には、横須賀海軍工廠にボイラーを特注し、金属機械製糸を開始した。同業のグンゼ等にもボイラー設置を勧め、指導し、但馬の養蚕産業の近代化・量産に 貢献し、但馬は活性化された。女工員百余名(主に播州より)。 宿舎完備。神戸、横浜の貿易商を通じて海外へ輸出。 渋沢栄一等と横浜生糸預り所設立等、中本経済の中枢で活躍していたのであるが、1889年(明治22年)に突然廃業した。なぜ廃業したのか?謎は多いが、寛一朗の「豪遊」は並大抵のもの ではなかったらしい。廃業後、このボイラーは1軒迂回して綾部のグンゼに 引き取られたという。 |
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■ 小倉家本邸跡 小倉家本邸跡に生える老松。樹齢500年以上と言われている。 小倉家14代当主興一右衛門宗清(1724-1796)は但馬から播州に亘る 広大な山林・田畑を領有し、管理するのに従来の家屋敷では諸事不便 となり、近くの要塞の地に、巨費と数年の歳月を費やして屋敷を造営本邸を新築し、 宝暦元年(1751)桜の満開の日に入居した。製糸工場跡は本邸の隣に位置するが、もちろん跡形もない。 山が削られて敷地がずれないように護岸ばかりでなく 川の底も石が敷かれている。戦後農地法の改正で小作人に亘り当時の施策として杉・檜が 植林された。 |
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■ 三階建て農家 大工・浜勝美氏に三階建て養蚕農家の成り立ちを説明していただく。 日本の農家のほとんどが平家であるが、大屋川一体には3階建て農家が多くみられる。 2、3階は、養蚕のための部屋で、切妻の屋根の上に越屋根(換気)、土壁には大きな窓を持つ独特の3階建て住宅である。これは、蚕の嫌う湿気と暑熱を防ぎ、風通し良く温度を保つための 工夫である。 階下で人間が住み、階上を養蚕場とすることで大切なマユに夜間でも適度な温度が保たれ、管理の目が届きやすかった。そのため蚕の増産のために、2階建ての家は、経費 をおさえるためにその上に増築し3階建てにし、新築する農家は、3階建てにした。しかし、柱は、節約のため、3階までの通し柱は大黒柱だけで、あとは、継ぎ足して建てたということである。 借金して規模拡大を計った農家があったが、蚕は上作不作の変動が激しく、必ずしも潤った訳ではなかった。大屋には、養蚕で大金持ちになった人の豪遊話、女工、蚕伝説の秘話等多くの話 が但馬の人々の心と共に伝わっている。 |
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