| 開催月日 | 10月31日(土) | 開催市町 |
豊岡市 |
| テーマ |
「大豊岡構想」とまちづくり |
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| 講師 | 山口久喜(豊岡市文化財審議委員) | ||
| 場所 | 豊岡労働会館 | ||
| 参加者 | 島垣、住吉、中田、浜野、藤原次、戸田、和田、西村美、湊崎、太田、宮田、岩本 |
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| 担当 | 岩本、宮田 | ||
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■ 町並みの発展 豊臣勢に但馬が征服され、城下町を豊岡に置くことになり、初めて豊岡のまちづくりが始まった。江戸時代には、豊岡に5つの町(小田井と城との間に滋茂、中、宵田、寺、子尾崎)が置かれた。その核の町が小田井である。ここは公界(治外法権)であったであろう。 江戸時代は、物流の拠点である円山川の西の自然堤防上に町が発展した。そして、明治42年に鉄道が開通した。それにより、駅前通りが形成されるなど現在の市街地が形成されてきた。 |
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■ 大豊岡構想 1 円山川の治水、鉄道の誘致、耕地整理という名の都市計画が「大豊岡構想」の柱。円山川の治水なくしては、豊岡のまちづくりはあり得ない。明治時代まで、円山川は平均して2年に1回は洪水がおこっていた。それを克服してこそ、都市計画を行うことが出来る。 |
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■ 大豊岡構想 2 「大豊岡構想」が形作られるようになったのは、明治4年に豊岡県庁が置かれた時から。現在の都市形成にあるように、委員会などがあって、立ち上げたのではなく、いつ、誰からとなく出てきたようである。 豊岡県は、但馬・丹後・丹波の3国、人口50万人の県域。当時の実情から行くと、何故豊岡に県庁か?という疑問が出てくる。石高でいくと、宮津、篠山、出石、福知山など大きいところは多々あった。町の規模は、舞鶴で当時9,000人。豊岡は4,000人である。豊岡が県庁になったのは、それまでの久美浜県のためではないか。スタッフも建物も、久美浜県の物が移った。従って、一番近いところの豊岡に移った。それまでは、但馬の中心地は出石と豊岡が二元的にあったが、それを契機に豊岡が中心となっていった。豊岡県が廃止され兵庫県に編入されたのに伴い、八鹿村が台頭してきた。明治になり蚕が産業の柱として国策として取り組み出された。しかし、但馬では養父郡を中心にそれ以前から産業の中心となっていたため、国策となったときに八鹿が産業の中心となっていった。これに対し、但馬の中心地としての自負のある豊岡の町民が危惧感を抱いた。負けてなるものかと。その一つの象徴が、明治29年に開校した豊岡中学校の誘致合戦であろう。当時、県立中学校は姫路にしかなく、2番目の中学校の誘致を豊岡と八鹿が競い合った。その誘致の実情は定かではないが、想像するに当時文部省の高官の浜尾新や久保田譲(両者とも豊岡出身、文部省官僚)が動いたことにより、豊岡に設立されたのではないか。その代わり、八鹿には蚕業学校が開校した。 これが「大豊岡構想」の走りと思われる。そして、その最終目的は市制を引くことにあった。 |
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■ 大豊岡構想 3 事業に結びつけて、都市形成したのは、但馬では豊岡のみ。豊岡は歴史的に、そうせざるを得なかった。都市計画を行うに当たって、耕地整理法の適用を受けた。しかしその実情は、都市計画であった。さらに大正14年の北但大震災の発生が都市計画を進めた。つまり震災により、建物が燃えたり、国・県の復興計画事業に併せて行うことが出来た。豊岡市の寿通りの斜線道路と、ロータリーをご覧下さい。普通区画整理は条里制の後をたどり、東西南北に整った道路を作るのが普通。しかし、寿通りの斜線道路は、小田井地区の横やりによるものである。この小田井は河川改修により立ち退きを受けることになっていて、その小田井地区が条件として立ち退き先に駅と直接つながる道路を引かせたのが実際である。この道路の真ん中に、パリのシャンゼリゼになぞらえてという話はあるが、無茶な道路を付けさせたための苦肉の策としてそういったロータリーを作ったのではないか。 そして、この道路のために、周辺開発が遅れる結果となった。 市役所周辺はシビックセンターとして開発された。大開通り周辺にちゃちな飾りものの建物がある。これを誰がどう進めたという記録はない。ただ、役場として当時でも派手な建物にしたのは、大豊岡構想の一貫であろう。 |
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■ 豊岡市役所 北但大震災(大正14年5月23日)の2年後、昭和2年に完成した豊岡町新庁舎(現豊岡市役所)「大豊岡構想」と称した街づくりのシンボル。3階部分は昭和27年に増築され、中央部は豊岡市議会議場となっている。 壁のところどころに幾何学模様の装飾を施し、窓のトップは丸くデザインされている1920年代のアールデコ調の趣が随所に残る。建物2階にある丸いトップ窓の内側。漆喰壁(一部ペンキ塗り)と木の窓枠の落ち着いた市役所内部。同じく、3階の議場の内部から見た窓。 かつては、この窓の向こう側に氾濫を繰り返す円山川や耕地整理の助成金を利用した市街地づくりの様子、さらに碁盤の目になっている市街地を斜めにはしる通りと寿ロータリーが見えたであろう 。 市役所玄関前の庭園は、玄武岩で仕切られている。現在は、玄武岩を採掘することは禁じられているが、当時は庭石や階段、石垣に使われていた。北但馬の古い家屋や庭園のあちこちで見かけることができる 。また市役所周辺には看板建築が残る町並みがある。 |
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