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2000年4月例会
開催月日 4月16日(日)

開催市町

朝来町
テーマ 但馬学研究会10周年記念事業「知りたい但馬・伝えたい但馬」
講師

丸山利典(南担まちなみ探偵団)・本庄四郎(但馬自然史研究会) ・富山利一(日高町・金山最後の住人)・松原しの(大屋町・元グンゼ職工・養蚕農家)

場所 あさご芸術の森 多々良木みのり館
参加者 池口・岩本・伊藤・太田・芝垣・島垣・住吉・高石・田中・戸田・栃尾・友田・中尾・中田・西村m・西村r・浜野・藤原j・細見・丸山・水田・湊崎・宮田・守山・和田
担当 全員  司会 中田孝一

 

中田  私たち但馬学研究会は、21世紀に伝えたい但馬の風景をとらえようと、10年間 活動してきました。風景は風の形ともいえますし、風は空気が動くことです。季節が運んでくる風、自然が起こす風、さらに人間の営みが起こす風もあります。4人 の語り手のみなさんは、いずれも但馬学研究会が毎月開いたスタディ例会でお話を聞いた方々です。私は「知りたい」立場で司会を進めて参ります。語り手のみなさ んはいうなれば、「伝える」立場でお話をしていただきます。
 

 人々が豊かに暮らそうとしてきた、その結果が風景
丸山  地方で建築にたずさわる者として、ちゃんと地元を知る必要があります。一つずつ探っていきました。風景としていろんなものが残っています。たくさんいいもの があります。その中で、風景の向こうにあるものが見えてきました。例えば農村風景です。これまで自然景観と単純に言っていたものが、林業や農業、さらに水車 や機織りなど工業が営まれてきた産業景観であるわけです。いうなれば産業景観の中で動物や虫がいるわけです。その時代その時代に、人々が但馬の地で豊かに暮 らそうとしてきた、その結果が今見えているのです。自分たちが作る豊かさ、産業が、次の時代に移っていくのであれば、産業に決められる景観を選択することは 、大事な作業になります。但馬学は、宝の山を一つずつ拾っています。但馬の農村景観で特徴的なものを挙げますと、大屋町大杉など養父郡の養蚕農家群は全国で ここだけといえるものをもっています。コンクリートの打ちっ放しに似た現代建築に通じるものがあります。また「うだつ」は、全国調査をした岐阜県美濃市の職 員がやってきて、但馬がいちばん多いそうです。特に八鹿町は市町村で日本一です。但馬にはいいものがたくさんあります。

 子どものころ見慣れた風景と違うなと感じるこのごろ
本庄  私が住んでいる竹野町は、山もあるし川もあるし、海もあります。そんな町で生まれて自然と付き合って暮らしています。僕は自分の子どもたちに 何を残せるのか考えるとき、「親は何もしてくれなかったけど、自然や風景を残してくれた」、このことが貴重なのだと思います。最近蛙に凝っています。赤蛙の 調査をしました。現在山田はほとんど耕作されていません。「杉を植えてもしゃあないし、田んぼ作って猪に食われてもしゃあない」と田んぼでおじいさんが言っ ていました。水路をたどっていくと山も荒れています。「子どものころから見慣れた風景と違うな」と感じることの多いこのごろです。

 村の下の土橋で泣いて離村した年末の雪の日
冨山  金山(きんざん)は蘇武岳から2キロほど下がった山の中にある、昔は鉱山の村でした。手掘りでしたから体がどうにか入るほどの穴が200ほど残っていま す。鉱石はふもとの金谷まで肩で負い、馬で生野まで運んだそうです。応仁の乱のころ、山名宗全の軍資金として徴用されたころ栄えたそうです。廃坑は江戸中期と いわれています。金山の生活で私たちがいちばん困ったのは終戦末期以降の教育です。先生を頼むにしても5軒や6軒でお金を出すのは負担が大き過ぎます。私が子 どものころは、三方小学校の分校扱いでしたが、家庭教育所というのが金山にあって、村のちょっと頭のいい人に教えてもらっていました。「阿瀬発電所の工事で世 話になった」と関電が金山に10キロの発電機の小さい発電所を作ってくれました。昭和29年ごろです。ラジオを村中買いました。文化生活ができるんだなと思いまし た。家は当時6軒でした。寝る時に電気を消すから、残った電灯がカアーとしてしまいました。「電気を消さんようにしてくれ、切っていいのはラジオだけ、電球は 増やすだけ増やせ」ということで、金山は不夜城でした。寝るのがつらかった。そのころ若かったし、みんな嫁さんもいるし、子どももこさえんといかん、あかいと ころでこさえた子どもです。そのせいか金山の子は器量のいい子ばかりです。金山の生活は炭焼きと百姓です。収入は炭焼きでした。親戚が「力餅」をやっていて出 てこんかと村の者は誘われました。みんなひっぱりで、最後は私の家一軒になりました。家内と子ども4人です。昭和37年12月26日でした。昼から雪がちらちらして 、金谷まで帰ったら白くなっていました。不動さんまで帰ったらすね坊主の下までありました。暗くなって家へ着きました。一晩で1メートル積もることもあります 。「だれが悪くなっても冬が過ごせんぞ」。家内に「もう今夜出ようや」。家内が用意していた夕飯を食べて、仏さんに灯明をあげ線香を立て、残った火に灰をかけ 、家を出たら家内は涙をポロッとしていました。(このとき冨山さんの目に涙)。長男が小学校6年でした。「私が出たら何百年続いた金山はおしまいだな」と、金 山の村の下に架かっていた土橋で私も泣きました。それから後、ふもとの羽尻の村で暮らしていますが、テレビで離村の番組があると、チャンネルを変えよった。春 になって金山に行っても家を見たいことなかったです。

 蚕と牛と炭焼きの家の嫁に
松原  満90歳になりました。大屋のスキー場ができていますが、その村(大屋町若杉)で生まれ、筏の小学校まで1里半通いました。天気の日はわら草履、雨の日 は高下駄履いて番傘さして通いました。親が1年に百足ほど草履を作り、冬はわらじでした。電気はなく、灯りはたいまつです。電気が付いたのは小学校6年でした 。小学校を卒業して八鹿のグンゼに入りました。糸引きですな。そのころ女の子は小学校を出たらみんな会社に入った。糸引きや機織りです。「娘が3人いたら家が 建つ」と言われていました。私も3人姉妹です。私は半年に120円渡していました。親に「おまえらの儲けたお金であそこの田んぼ買ったでな」とほめてくれました。 10年勤めて昭和7年、23のときに男の子ばかり6人の家に嫁に来ました。「男の子ばかりで損をした」といっていました。里も嫁ぎ先も養蚕をしていました。養蚕す るときは寝るところもないぐらいです。蚕と炭焼きしか金儲けがありませなんだでなあ。玄関の左側に牛がいて、土間からえさをやっとりました。子どもは学校から 帰ってきたら、草刈りに行っとりました。昭和40年に主人が亡くなって、草刈りができないので牛飼いはやめました。家は嫁にきたときは草屋根でしたが、昭和11年 に新築しました。2階は全部蚕さんでした。今は物置ですけどな。家の周りの畑でせいを出しています。鹿や猪が来ますけどな。周りの山は雑木ばかりでしたが、杉 を植えということで下刈りもえらいめしたのに、売れれへん。みんな「クッシャン、クッシャン」しながら「山どもいらん」言っとります。養蚕があかんようになっ たのはナイロンがでてきたからです。絹はアメリカに輸出して婦人ものの靴下になりよったですな。繭を100貫目とると米70石買えるほど景気のいいときもありました 。

 干した塩魚にいたちが屁
冨山  今ごろ動物との共存共栄言われますが、私はちょっと話がしにくいんですが、21歳のときから猟をやっとりました。そのころ猪はいなかったのですが、 いるようになってから倒した猪は600頭を超えます。金山にいるとき、野菜は自給自足できますが、肉をしょっちゅう買って食べるわけにはいきません。そのかわ り、焼き畑や田んぼをつくっていると、野兎が稲をかむ、そばをかむ、「早うワナをかけにゃあ」と女房が言いまして、そして「ワナに兎がかかとったので穫って きてあるで」ということで、皮を剥いて焼いて砂糖醤油をつけて食べました。流域が広く普段から水が減らないので、魚もひらべ(ヤマメ)がたくさんおりました 。魚や肉は下の部落の人よりたくさん食べました。鑑札を受け、猟の期間がありますが、やまどりも撃つきじも撃つ、年中猟をやっとりました。誰も見に来ないと ころですから。今こそ少なくなりましたが、川の魚にしても動物にしても、私らが金山にいるときはたくさんいました。下に出たとき塩物をたくさん買って帰りまし たし、それなりに生活できました。塩さば塩ますを買ってきてぶら下げていたとき、「なんだあ変な臭いがする」ということで焼いてみたけど食べられへん。「放 らにゃあっきゃあへん。いたちが屁をかけちゃっとるがな」。自分が食べるために印をつけちゃうんですな。ですから、そのまんまぶら下げといたらそういう悲劇 も起きました。こっちもやるかわりに向こうもやるんですな。することと言うことが違うんですが、国定公園になってまして、自然保護指導員をしとります。豊岡 農林事務所といっしょに野鳥の会や自然保護の人が来られて、「動物が少なくなったので共存共栄を図ってくれ、猟師は穫るのを控えて欲しい」と申し出がありま した。何も被害を受けない人ならそれもいいが、田んぼを1反も2反もわやにされてしまうし、そうはいかん。そう言われる人はお金を集めて被害を受けた人に足 しにしてと持ってきてもらうのならともかく、お金を出さんは共存共栄では何も話にならんです。
 
中田  今日これから講演していただく宮崎さんの『けものみち』という写真集を先日、冨山さんに見ていただいたとき、きつねやたぬきなどを見なが ら「これはうまいんだで、これはあんまりうまくない」とページを繰っておられました。ここで本庄さんから見た但馬の自然の特徴、また今、但馬の自然に何が 起きているのか話してください。

 けものと人間の境界が崩れて
本庄  僕もたぬきの味を知っていますし、鹿の肉、猪の肉が冷蔵庫に入っていますよ。一般論として「あつ、かわいそう。かわいそうだから守ろう」と流 れているふしがあるのですが、野鳥の会や自然保護団体はそうでなくて、本当に生き物が、例えば最近熊が里に出てきて撃ってしまう、何がもとでそうなったのか考 えていかなければならないと思うんです。私の友達に40年ほど鉄砲を撃っているのがいるんですが、山を隅々まで歩いて知っています。彼らは「山が荒れている」と 嘆いています。「猪は賢くて清潔好きで、人間の知恵を超えた能力を持っている」とけものを尊敬しながら食っているんですが、その話に説得力があってすごいなあ と思います。昔、但馬には猪があまりいなくて、汽車に乗ったとき丹波で猪の柵があって、何だろうだろう」と言うと、「猪が出るんだで」と聞かされたものです。 それが今は但馬の海岸のほうに、この前海岸を歩いていると猪の子が打ち上げられていましたが、今はは海岸にまで猪がいます。昔なかったことが起きている。何が 問題かというと、猪も猿も熊も、自分たちがここまで行けるという人間との境界みたいなものが、随分崩れてしまっています。人間は人間の山を使う、生き物は生き 物の環境を使う、そういう生活様式があったと思うんですね。それを人間が一方的に変えてしまったから、生き物たちが自分の環境が見えなくなってしまった。山が 荒れてきた、けものたちが出てきた。行動範囲の広い熊が歩き廻ったのが、「あっちにもいる、こっちにもいる」とたくさんいるように思ってしまっていることもあ ります。僕らも暮らし方を考えて、木や山を見直し、生活を見直していったら、猪を食べればいいし、鹿も食べればいいと、そう思うんですね。何か、かわいそうと か捕まえたのを放すとか、私は放すのは反対ですが、何かつながっていないものがありますね。子どもたちに但馬の自然をきちんと残そうと思うと、身のまわりの自 然を見直すことから始めなければならないと思いますよ。


中田  本庄さんは学習塾をやりながら、本当は山に連れていっているのではないかと思うんですが、自然の中でこんな遊びをやっているとみなさんに 教えてもらえませんか。

 水と遊ぶ
本庄  子どもたちを毎年金山に連れて行ったんです。水と遊ぶのが好きですね。金山から金谷・羽尻へ阿瀬川が流れています。子どもたちはチューブに乗 ってどんどん下流に落ちて行く、僕はウエットスーツで川をごそごそ下りて行くんですが、石の下を見たらにこんじょとか、「オーおるな」。とげのある魚ですね。 いちばん好きなのは、雨の日に水の中に入って水中めがねで水面を見るんですよ、スローモーションのように波紋が広がる、あれがけっこういいんですよ。それと水 の音がいいですよね。小さな流れにいると、音が変わるんですよ。浪人のころ聞いた但馬の子が書いた詩があるんですよ。その表現の仕方がガーンときて、ずっと探 していたんです。そしたらこの前見つけました。但東町の東井義雄先生が指導しておられた生徒で相田小学校5年の子の詩です。但馬の子がこんなふうに音を聞いて いるのかと、うれしくなりました。「川は流れる、ピルポルパルル、ピルポルドブル、ポンポチャン」だったと思います。僕は蛙の声を聞くのが好きだし、鳥の声が 好きだし、音を聞きながら1日ホーとしていても飽きません。

中田  但馬の特徴ある風景や民家がたくさんありますが、今開発されたり、新しい様式の建物が建ったりしています。でも但馬の風土に合った建築様式が あったと思います。それが今どう変化しているのか、どう考えていくのがいいのか、そのへんを丸山さん、話してください。

 風土が生んだ住まいに心地よく暮らせる形
丸山  建築は本来、風土に近いところにあったと思います。但馬の湿気の多いこの風土に合った建て方や素材が本来選ばれていたと思うんですね。養蚕農 家なんか、土とか木とかそういうもので、まして蚕さんを飼う作業がありますので、消湿効果とかよく考えられているという気がします。新しい科学技術の時代に なって、世界中共通の家の建て方ができると思うようになってしまっているのではないか、でもやはり、この風土が生んだ住まいに、いちばん心地よく過ごせる形が あるのではないかと考えます。それを求めるには、これまでどんな暮らしぶりをしてきたのかに、目を向けるのがいいと思います。家の形っていうのは、非常に狭い 範囲でしか成立しない、但馬でも建て方が違うという気がするんですね。昔の建物や町を見るとそれを的確に教えてくれるのではないでしょうか。松原さんの話を聞 いていると、昔の養蚕農家は上のほうは蚕がいて、門には牛がおった、人間の寝るところは狭められた、そういう暮らしぶりをしてこられたんですね。そういうこと をつぶさに検証していけば、但馬に合った住まいが出来てくるんではないでしょうか。

 娘の嫁入りにとくずの繭で機を織る
松原  (数点の色鮮やかな布を広げて)これはね、私が養蚕をしていたころ、娘の嫁入りの着物にと、くずの繭で糸を引き機を織って、染めに出したもの です。センジンと言っていた布です。年がいって派手になったら、染め直して地味にしました。何回も染め直して使いました。今はなんでも買えばいい時代になって しまって、子どものズボンのすねぼんさんが破れるでしょう、今の若い人はつぎなんてことせんでも、丸いものを買ってきてアイロンをシュッとかけたら隠れるでし ょう。針を使うなんてことせんでもいい。破れたらすぐ捨てる。私らは買うなんてことが全然できなんだ。自分が織ったものを縫って娘の子らの服を作りました。昔 の本はこれは何歳の服の型と服のことばかりでした。いまの本は食べることばっかりです。

中田  時間がきてしまいました。但馬を知るということで何か一つ興味を持ち始めると、どんどん膨らんで、こんないっぱい楽しいことがあるんだなと、 それが但馬学研究会が続いてきた原動力です。今日の「座談」の様子、また月々の例会の結果や案内はホームページに紹介します。興味のある例会がありましたら、 ぜひご参加ください。
 

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