| 開催月日 | 9月25日(土) | 開催市町 |
浜坂町 |
| テーマ | 「迷路のまち」迷路になった原因の検証 | ||
| 講師 | 下田英郎(記念館館長) |
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| 場所 | 「以命亭」(浜坂町先人記念館) | ||
| 参加者 | 島垣・浜野・中田・太田・藤原次・ 伊藤・木村・細身・住吉・中尾・田中 |
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| 担当 | 太田 | ||
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■ 浜坂先人記念館「以命亭」 明治の教育者、森梅園の生家。約300年10代にわたって酒造業などを営んでいた商家。浜坂の歴史や文化を伝える資料館。ここの館長の下田英郎氏からお話を伺う。戦国時代末期の但馬水軍の話、また、その当時に活躍した海将・奈佐日本之助の興味深いお話を聞く。 ■ 日本海に面し農、漁、商業によって発展した町 江戸後期に針産業が起こり、幕末前後針の町として知られた。 ■ 外的侵入者からの防御 浜坂の名前は、浜から坂があり、登り切った高台に、蔵屋敷が在ったことに由来する。御屋敷町、元屋敷と言う名で今も地名が残っている。 江戸時代は豊岡藩の御蔵所があった。ここが所謂中世海賊の地であり、侵入者を容易に、御屋敷に近づかせないために、迷路状の路地になっ たと思われる。外部からの侵入を防ぐために作られたカギ型の路地。古い石垣と狭い路地。その路地に多くの民家が密集している。 |
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■ 浜坂の海賊伝説 浜坂六軒衆(松岡、下田、下雅意、田口、矢兵衛、湊兵衛)として恐れられた。他に、居組の海賊、芦屋の海賊(岩美町の伝説、竜神洞)「海東諸国記 」の但馬州津山関(佐々木兵庫助源光吉) ■ 活躍した海賊(水軍)奈佐日本の助 応仁の乱(1462年)から丸山砦(1581年)で最期を飾るまでの間、約120年間、彼(彼ら)の記述がまったくない。そのころルソン(現フィリピン)、台湾 、明国、高句麗と華やかな交易が行われていた。もちろん鎌倉、室町幕府容認ではない。いわゆる密輸である。 税を取り立てできない集団を幕府は山賊、海賊と称していた。現在我々が認識している賊ではない。山賊(衆)は高度なタタラ技術を持ち、良質の鉄を生産していた。日本刀、鉄砲を良く使いこなした集団でもある。 その時代、鉄砲の数は世界で一番保有していたと伝えられている。日本刀に至っては遠くスペイン、ポルトガルから買い付けに来るほどであった。 彼は世界を相手に交易するため日本之助を名乗ったのではないだろうか。 ■ 海将から海商へ。 彼は織田信長方の水軍大将、松井康幸率いる船団50数廷と互角に戦った、そのことだけ見ても彼の配下の大きさが解る。 海将(海商)になってから約120年間にどれほどの財を築いたことか。山賊から日本刀、鉄砲そして振砂(しんしゃ)いわゆる水銀である、この水銀は 但馬地方でよく採れた、金を産出するのに欠かせない水銀は逆に金ほどの値打ちが当時はあった。今でも水銀の採れた名残で「丹生」の地名が数多 く残っている。丹は水銀の事である。これらを輸出し、帰りには永楽通宝を舟底にたっぷりと抱え帰国したものと思われる。永楽銭は当時一番信用があっ た、そして日本から持っていった水銀で分離した「金」も持ち帰った。なぜなら当時のルソンをはじめとするアジア諸国は銀文化で、金をあまり重要視し ていなかった。 日本の助は此の貿易で得た金を御屋敷に貯蔵していたのかもしれない。 |
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味原川に架かる太鼓橋。かわいとがある。先頭を行く講師の下田さんと説明を聞きながら川を眺めるメンバー。 |
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